小 話

連載:梅花くすしく 第14回

2021.11.09

第二章 梅光精神(スピリット)よ 永久(とわ)に!

❘恵みの記憶❘

権藤市津代編

1 永久(とわ)の感謝 権藤市津代

第二章では『遠望』、『梅光』を中心に、卒業生にとっての「梅光」をとりあげたいと思います。
『梅光女学院遠望 戦後編』の発行に際してよせられた原稿を読ませていただいた折、心うたれることがありました。
綴られた「学生時代の思い出」はひとりひとりが大切にされているものでまさに千差万別。読みごたえがあります。
ところが「結び」の箇所になると、多くの方が「学院・院長・諸先生方」への感謝でしめくくっておられました。
私学ならでは、それも梅光ならではのことと思いました。先輩から後輩に受け継がれる「心の宝物」・・・やや感傷オーバーと自覚しながらも、英語で表されていれば受け入れ易いのでは・・・などとこれも独りよがりでS・Ebiiさんとお友達のお力をお借りしました。

Eternally Grateful
We always feel that we are loved by our great teachers of BAIKO
So we are sincerely appreciate for what our teachers gave to us
Yes! Every single moment was so brilliant That’s why I would be grateful
If you could keep on talking about this
then it will be a legend forever.
(S.Ebii)

永久(とわ)の感謝
私達はいつも梅光の恩師の方々に愛されていると感じています。
先生方が私達に下さった愛情に心から感謝しています。
そうです! 梅光で過ごした一瞬一瞬はとても輝かしいものでした。
皆様方が この出来事を語り続けてくだされば 幸いです。
そうすれば それは永遠に伝説となることでしょう。

2 『遠望』によせて

梅光女学院同窓会により、一九八七年七月、『梅光女学院遠望』、続いて二〇〇四年五月、梅光学院同窓会により『梅光女学院遠望 戦後編』が刊行されています。卒業生による回想記を中心に学院の歩みを記録したものです。安冨惠子さんが、その都度楽しく生き生きと『梅光』誌に読後感を寄せて下さいました。〈活字の中の梅光〉そのものです。
『梅光女学院遠望』と『梅光女学院遠望 戦後編』、この二冊により一三〇年にも及ぶ学院の歩みをたどっていただきたいと思うところです。

『梅光女学院遠望』を読んで
読後感ということで気軽におひきうけしたものの丹念に読み返していくと、草創の時期から終戦時までの梅光に学ばれた方々の熱い思いが伝わってきて、むしろ畏れを感じてしまった。思い出というものは美化されがちだが、そんな懸念を吹き飛ばしてしまうほどの迫力がある。いまからでも羽織袴で丸山の寄宿舎に飛び込みたい気がするから不思議だ。「梅光」の文字が長崎の梅香崎女学校の「梅」と山口の光城女学校の「光」とで成り立っており、前者はヘンリー・スタウト夫妻によって、後者は服部章蔵らによってそれぞれ紆余曲折を経て礎がすえられていくくだりも実に興味深い。一八九九年に高等女学校が出来るまで、日本の女子教育は私塾に頼っており、特にキリスト教宣教師による私塾の働きにはめざましいものがあるのである。朝のテレビを見ていると、女主人公の一代記では必ずといっていいほど宣教師や教会が表れて、主人公の自立への動機づけをするわけで、キリスト教が伝道の一方策としてであれ、女子に学問への道を開いてくれたことは、実に感謝すべきことであり、この背後には女性も神の前に人として平等であるという思想があったからだと思う。

とにかく梅香崎にしろ光城にしろ、時に応じて場所を変え名を変えて存続し、一九一四年、米国からの寄付を得て、同じ長老教会系列のこの二校が中間地点の関門地区に合併して拠を構えることとなり、その壮大な学校大移動の模様は黒木五郎氏の「学校移転の記」に詳しく、面白く、このように学校という有機体が生成していったのかと、ロマンさえ感じる。しかし同じ長老派とはいえ、二つの学校が合流してトラブルはなかったのだろうか? この世の常としてはむずかしいことも本書を見る限り、広津院長のもとミス・ビゲローはじめ両校の先生方一丸となって新生梅光のために励まれた様子がうかがわれる。「昨日は何先生、今日は何先生と写真で見たばかりの先生方は前後して着任して、初対面の挨拶がすむと、もう何十年の知己のようだ。互いに労働者となって、泥沼の中を活動した」(三一頁)と黒木氏の文にはあり、かれらがこの世の名誉や成功よりも天にある一事を仰ぎ見て進まれたのだろうと思う。
さて、とにもかくにも梅光は文句なしに楽しい学校だったようである。同窓生が異口同音に口にするのは、西洋館での宣教師たちとの交わり、英語の授業やピアノのレッスン、関門を通過する有名人を次々招いた講演会、学芸会、梅光デー、毎朝の礼拝、野外英語劇、強化遠足など、今私達が聞いても羨ましくなるような充実ぶりである。その根底にはおそらく何よりも「愛」があったのであろう。温厚で慈父のような広津藤吉先生はじめ諸先生たちはみな一人一人の生徒を、個々の魂を何よりも愛していらっしゃったに違いない。どうしたら若い魂を正しく豊かに導けるか常に考えていらっしゃったに違いない。だからこそあれほど豊かに、文化面でも学習面でも運動面でも教育的配慮がなされていったのだと思う。
放課後、虚弱な一学生は広津先生のお宅で石綿をつめたお灸で治療していただいたという話 (一一四頁)や、またある身体の弱い女生徒は毎朝十時に宣教師の部屋に来るように言われて行くと牛乳かトマトジュースを一杯飲まされる。そのあと必ずあめ玉か肝油を一ついただいたという話(一九六頁)、また遅刻常習犯の生徒が呼び出されててっきりお目玉をくらうと思っていたら、卒業劇のプロデュースを任されてその日以来一度も遅刻しなくなって、それが遅刻の罰だったと納得している話(一九二頁)など、一人一人の魂をどんなに大切に教育がなされたかというエピソードで満ちている。
また学内には、クローバーやつつじ、あじさい、コデマリ、白バラ等美しい草木があふれるばかりに丹精されており、また西洋館、丘の上のあずまや、荘厳なチャペル、長い渡り廊下など、同窓生たちが口々にその美しさへの愛着を語っている建物があったことも印象的である。これも生徒に対する無言の愛であり、教育であると思う。学校が愛の場であったことと同時にもう一つ特筆すべきことは、学校が外に向かって使命を持っていた点である。
それはまさに「愛の業の実践」であった。愛された者はまたその愛を他者に向けることができる。広津藤吉先生は広く台湾、朝鮮、満州からも留学生や生徒を受け入れ、また関東大震災の救援活動、ライ患者との交流、出所者伝道の本間俊平師への応援とか、常に目を外へも向けていた人であった。その精神は生徒たちにも受けつがれ、ある人は社会事業家となり、またある人は伝道者、またある人は市井でボランティア活動を続けられた由、共々に「受ける愛」と「与える愛」の素晴らしさをかみしめられたに違いない。現在の梅光に、もし、嫁入り道具の一つにと親に請われて進学したり、偏差値でふりわけられてやむなく入学してきたり、実力をつけることよりも単位や卒業証書だけが眼中にある人がいるなら、今一度、学校で学ぶということはどういうことなのか問いなおしていただきたい。そして「われらの母校は山の上の城」と誇らかにその学生生活を謳歌し、したたかに英語や音楽、家政一般などの知識と実力を身につけていった先輩たちがいたことを思いおこしていただきたい。最後に、チャペルソング「The Lord is in His holy temple・・・」は梅光でれんめんと歌いつがれている歌だと知って驚いたが、今後いよいよこのチャペルタイムが梅光を支える屋台骨として充実していくことを望みたい。
❘『梅光』二〇号 一九八八年❘



Baiko Chapel Chant
The Lord is in His holy temple,
The Lord is in His holy temple,
Let all the earth keep silence,
Let all the earth keep silence,
Before Him! Keep silence,
Keep silence, Before Him!

連載:梅花くすしく 第13回

2021.10.30

二〇二〇年(令和二年)

一月二三日 朝日新聞
  「坪田譲治文学賞に村中李衣さん」という見出しに惹きつけられた。
村中李衣先生が梅光女学院短大で児童文学担当として着任されたのは一九八七年で、先生が野間児童文芸賞を受賞された年であった。手作り絵本展や読み聞かせの実習など学生たちは楽しみながら学んでいた。先生は二〇一四年に退任され、現在はノートルダム清心女子大学の教授である。今回の受賞作品『あららのはたけ』(偕成社)に対しては「いじめをとりまく子どもたちの心の動きを繊細に描いた」と紹介されている。心からお慶び申し上げたい。




二月二四日 「こだわり文化塾」
〈下関文化らく~ざ〉が開かれた折、村中李衣先生は〈未来はあるのか❘子どもの本から読みとく❘〉と題して、「子どもの広場」の横山真佐子さんと共に「こだわり文化塾」を開設されたので、私も参加させていただいた。人と人とのかかわりが希薄になっていく時代にあって、心を耕すことの楽しさ、ぬくもり、よろこびなどを味わいながら生きてゆくことがどれだけ大切か・・・久しぶりに心豊かな時間であった。



私にとって、いっしょに絵本を読みあう、
じいちゃんばあちゃんは、向こう側の人ではない。
今日という時間を持ちあう〈傍らの人〉なのだ。
傍らの人の呼吸を感じることで、
私自身の呼吸も、自然に楽になっていく。
そういう場所に、今、私はいる。
❘『絵本を読みあうということ』 ぶどう社刊 一九九七年一月❘

以前先生が出された本の表紙カバーにあることばである


四月一一日 読売新聞文化欄
「倉本先生の記事が読売に出てるヨ」と友人からの電話。佐々部清監督の急逝を悼んで書かれたものであった。タイトルは「『キネマの街・下関』夢見て」。故郷下関への思いを映画に込めて表現された『カーテンコール』を取り上げ、モデルとなった「みなと劇場」を中心に、周辺の「まるは通り」を登場させたことについて、先生は「これは戦後下関の一劇場を取りまく街並を正確に再現したのではない。ノスタルジーの中で描く、夢のような『キネマの街』を創ったのだ」と書いておられる。
また倉本先生も実行委員をつとめられたここ数年の「海峡映画祭」について、その立ち上げから佐々部監督が協力し、情熱をかたむけられたことが紹介されている。



監督は昔のにぎやかな下関を取り戻したいと願っていたわけではない。洗練された文化的都市としての未来像を探り、とりわけ映画を撮る・観る文化が根付く「キネマの街」になることを夢見ていた。その夢は共感した多くの市民に引き継がれることだろう。
❘読売新聞 二〇二〇年四月一一日❘

下関の未来に希望の灯がともされたようで、最近新型コロナウイルスのために閉ざされがちであった心が晴れた思いであった。


四月一六日 毎日新聞 オピニオン欄 新型コロナウイルスの緊急事態で、世界中が対策に追われているなか、渡辺憲司先生の「発言」が掲載された。「休校中 今こそやさしさを」という題で、感染症に対して差別や偏見が発することへの警鐘である。
かつてハンセン病、エイズ、水俣病、福島の放射能汚染などに伴う差別があった。この事実を直視し、今回のコロナ対策で教育現場が、最も危惧しなければならないことは「日常生活の中で平等に教育するという基本的思想が見落とされることが危惧される」と指摘されていた。
医療現場で働く人の子供が保育園通園をことわられたというニュースを見たばかりであったので、襟を正される思いであった。


四月二四日 朝日新聞 オピニオン欄
渡辺憲司先生はついで朝日新聞にも意見を述べておられる。見出しは「未来 夢見るより作ろう」。
休校中の子供たちに向けての視線をもっていくつかの具体的なアドバイスをされている。

残念だが、授業の再開を見通すのは容易ではない。
みな、自分たちの未来がどうなるか、不安だろう。
❘中略❘
厳しい経験を通して、どんな大人になっていくかを考えてみよう。
❘中略❘
ウイルスは肉体を、むしばむだけではない。精神や心をも侵してゆく。
 ❘中略❘
それだけではない。自己の誇りや人間性も奪っていく。
だからこそ、やさしさが必要だ。目の前の人にやさしさを向けよ。家庭でどんな役割を果たせるかを考えてみる。弟や妹の面倒をみよう。家族のために食事をつくるのもいい。遠く離れて暮らす祖父母に手紙を書いてみるのは、どうだろうか。やさしさは、やがて自らに帰ってくる。
想像力を働かせよう。病気になってしまった人を排除するのではなく、どんなに苦しんでいるかに思いをめぐらせる。
❘中略❘
日記をつけてみよう。
❘中略❘
散歩に出よう。これまで気に留めなかった雑草にも花が咲いている。吹きすさぶ嵐の中で、懸命に、いのちをともしている。
❘朝日新聞 二〇二〇年四月二四日❘

子どもたちの健やかな歩みを見守る者でありたいと願わずにはおれない。

(この冊子の発行日を広津信二郎先生のご召天の日、七月四日と定めました。先生方に関する記事の見落としもあったかもしれません。追加したいものもありましたが、二〇二〇年七月四日で、一区切りとさせていただきました。)


参考文献
1 渡辺憲司 『時に海を見よ』 双葉社 二〇一一年七月
2 村田喜代子 『縦横無尽の文章レッスン』 朝日新聞出版 二〇一一年六月
3 北川 透 「わが漂流 下関行」『文藝』 河出書房新社 一九九一年四月
4 矢崎節夫 『金子みすゞ こころの宇宙』 ニュートンプレス 一九九九年七月
5 赤江 瀑 『香草の船』 中央公論社 一九九〇年三月
6 山崎朋子 『朝陽門外の虹❘崇貞女学校のひとびと』 岩波書店 二〇〇三年七月
7 佐野眞一 『甘粕正彦 乱心の曠野』 新潮社 二〇一〇年一一月
8 吉村 昭 『生麦事件』 新潮社 二〇〇二年
9 辻井 喬 『西行桜』 岩波書店 二〇〇〇年六月
10 秋葉四郎 「雪中悲報来」『短歌』 カドカワ二〇一八年五月号

連載:梅花くすしく 第12回

2021.10.30

11 「令和」になって

二〇一九年は改元の年であった。平成三一年の一月ごろ、矢本浩司先生の講座に出席したことを契機に、この小冊子の制作を思いたって作業を重ねるうち、春には「令和」となり、例年にもまして歳月の速さを痛感させられた。
梅光も新しい歩みを進め、東駅キャンパスには新校舎も完成した。先生方やカリキュラムなども往年とは変わってくるのも時代の流れであろう。そのように思えば一段と、渡辺憲司先生の説かれる芭蕉の「不易流行」という言葉が心に染みたりする。梅光に関わられた先生方に関する記事など目に留まったものを追記しておきたいという思いは相変わらずである。この一年をふり返り、記事の内容も重みがある事を実感し、一年の歳月を費やしたこととも無駄ではなかったと思えてくる。順次、ご紹介したい。


四月一六日 読売新聞 文化欄(九州・山口・沖縄)
「『令和』導いた筑紫歌壇」という見出しで、万葉集の梅花の宴のことがとりあげられていた。その後マスコミで何度もとりあげられ、太宰府には観光客が押し寄せ多くの人が知ることとなったが、当初その記事は新鮮で雅な王朝風俗の写真と共に人目を引くものであった。

旅人(たびと)が大宰帥(そち)として赴任していた間、九州は内憂外患もなく穏やかであった。自然を尊び人生を楽しみ憂え、思索を深めていったのが筑紫歌壇の特色である。国際化にさらされた現代にあって、新元号を喜びと希望をもって受けとめたい。
❘読売新聞 二〇一九年四月六日❘

多様で柔軟な発想で、大伴旅人・山上憶良・沙弥満誓等の歌の紹介のあとこのように述べられた記事には、島田裕子・元梅光学院大教授寄稿とあった。島田裕子先生は一九八七年梅光女学院短期大学部に着任され、後に大学の日本文学科教授となられた。万葉集の研究(主に大伴家持)をご専門とされ、歌集に『コートに菫を』(短歌研究社一九九九年十一月刊)がある。

淡黄の氷菓のごとき月の真(ま)夜(よ)旅人(たびびと)算(ざん)を少女解きいる
人のなき坂をのぼれば雨のなかに白き花ふる樹より解かれて
濃緑の帆をはる船がはつなつの風にうねれり遠き林は
掌中におさまる手帳に記しおく未処理事項のずしりと重い
海峡の駅に着きまずうれしきは香ばしき麺麭(ぱん)の匂いたちくる

第一首から三首まで、淡黄・白・濃緑と色彩をとり入れて繊細な情景が描かれて印象深い。第一首の「旅人算」とは、算数で速さを題材とする文章題の類型の一つだそうである。四首目の歌は働く人皆が共感する思いであろう。最後の一首は以前の下関駅の雰囲気が思い出されて微笑ましい。
島田先生は授業や部活、「アルス梅光」などで短歌の実作も指導された。


五月二〇日 西日本新聞 投稿詩欄
偶然手にした新聞。投稿詩の欄に目をやると「北川透選」とあってびっくりした。寸評も添えられて懐しく拝読。


六月五日、六日 朝日新聞「折々のことば」鷲田清一編
六月・七月「折々のことば」欄では梅光に関して刮目すべきことが続いた。
六月五日は 村田喜代子先生の『飛族』から「人間は人に寄りついて暮らすものではねえて。長年ずっと土地に寄りついて生きてきたもんじゃ」が取り上げられた。
遣唐使が中継点として立ち寄ったといわれる西の離島は、今は齢(よわい)92と88の女性二人が住むばかり。大分に嫁いでいた娘が母を引き取るつもりで里帰りするも、きっぱり断られる。海に潜り、土を耕し、陽光と雨嵐と鳥たちから時に乱暴な挨拶(あいさつ)を受けた女たちは、地に打たれた棒杭のように《垂直の生》を生きてきた。
❘「折々のことば」二〇一九年六月五日❘
続いて六日も同じく『飛族』から「楽こそ恐ろしい」がとりあげられた。

・・・里帰りした娘が今も海に潜る母の連れにウェットスーツとフィンの装着を勧めると、こう返された。体が冷える、息が切れるという苦痛があるから、耳を壊したり、命を落としたりする前に引き返せる。
❘「折々のことば」二〇一九年六月六日❘

村田先生の筆力と、それに喚起される世界を紹介された選者の鷺田清一氏に感じ入った。


七月五日 朝日新聞「折々のことば」鷲田清一編
磯田光一先生の『戦後批評家論』から「『書く』ことから『虚栄』を引き去って何が残りうるか」が取り上げられた。

戦争が終わり何の「傷」も負わなかったはずのない文学者が、開き直り、人を揶揄し、時に道化めいたりしつつもついに誰一人筆を折らないと、苦々しい思いでやはり書いた文芸批評家・伊藤整。その述懐を引きとるかのように、同じ文芸批評家はこう書いた。「虚栄」以外に残るものがないのなら、この「絶望の意味を問う」ところまで立ち戻るしかないと。
❘「折々のことば」二〇一九年七月五日❘

これはこの後に紹介する、渡辺玄英先生の「戦争と詩人」と題する西日本新聞に寄せられた文と呼応して、興味深かった。
磯田光一先生は、梅光に大学院を開設するために奔走された佐藤泰正先生に懇望され、一九七六年、梅光女学院大学に着任された気鋭の文芸評論家であった。先生は、この本州西端の小さな峠の大学へお越しになるのを殊の外楽しまれたと聞いている。
佐藤泰正先生は磯田先生の講義日程について次のように記しておられる。

隔週でいいですと言っても、「いや専任者たるもの週に一度は学生に顔を見せねば申し訳ない」と言って、みずからに課した責務を誠実に励行された
❘『梅光』一九号 一九八七年❘

また先生が亡くなられたあと夫人から蔵書の寄贈を受け、梅光学院大学図書館に「磯田光一記念文庫」が設置されたことについては、当時の図書館長松尾文子先生が綴っておられる。

地方の小さな大学がこのような文庫を開設するのは珍しいということでお誘いをいただき、「第一〇回図書館総合展」に参加することとなりました。
❘『梅光』四〇号 二〇〇八年❘

続いて翌二〇〇九年にも『梅光』誌に松尾先生はこう報告されている。
『第一〇回図書館総合展/学術オープンサミット二〇〇八』(パシフィコ横浜)が無事終了しました。大学図書館の磯田光一記念文庫と故磯田先生をテーマに、特別フォーラムとブース展示を行いました。
これらを通して、稀代の文芸評論家、研究者、そして教育者としての磯田先生の偉大さを再確認しました。教育と研究の場において、磯田文庫を大きく育てていかなければならないと考えています。
❘『梅光』四一号 二〇〇九年❘

梅光の先生方の学問や書籍に対する熱い思いが伝わって来た。


八月一二日~一五日 西日本新聞 文化欄
「戦争と詩人」と題して、渡辺玄英先生が寄稿しておられる。
終戦記念日にちなんで、上・中・下・三回にわたる連載。大東亜戦争期、多くの詩人が戦意高揚のための詩を書き、敗戦後再び自由な(ふりをして)詩を書き始めたことに対する考察である。

重要なのは、何を書くかではなく、どのように書くかという表現の方法と質である。〈対象への向き合い方〉とそれを支える〈批評の力〉。これを戦争という事態への真摯な対峙とそれを批評的に表現する力と言い換えてもいい。戦争期、この両者が欠けていたのではないか。❘中略❘
戦後、生き残った若い詩人たちは、敗戦ばかりでなく、詩の敗北も噛み締めていた。詩の自由を捨てて戦争賛美を書いた詩人たちとは別の道を歩まねばならなかった。そして何より自分たちが直面した戦争と戦後に向かい合って詩を書き始める必要があった。
鮎川信夫、田村隆一らによる詩誌「荒地」はその代表的存在だろう。かれらの詩は戦争の傷を背負いながら、世界に対して、より思惟的かつ批評的なものになるのだった。
現代の私たちの詩はこの延長線上に存在している。
❘西日本新聞 二〇一九年八月一五日❘

渡辺玄英先生は二〇一一年は非常勤で、二〇一二年からは専任で梅光学院大学日本文学科で教えておられた。


九月二一日 読売新聞 文化欄(九州・山口・沖縄)
「震災後 希望見つめて」という見出しのもと、渡辺玄英著 詩集『星の(半減期』(思潮社)の出版が次のように紹介されていた。
〈まだ起きていますか。未来が死んだところです〉という語りで始まる表題詩は、レクイエムを奏でるような静かな筆致で滅んだ世界を描く。
〈耳を澄ますと/(夜のソラに/明日の朝のトリの囀りが消えていく/一月後の街の喧騒が消えていく/一年後のきみの声が消えていく/(あたりはしんとしているのに/たくさんの未来の声が(さいげんなく/きえていく(きらきらと/ほしのようだ(ほしのようだ〉
明日も今日と同じように続くと信じている未来など、ありはしないことをつきつける。「震災直後上京したら電力事情の悪化で、夜空に星がよく見えた。その光が何千、何万年も前のものなら、もしかしたらその星は、すでに滅んでいる可能性もある。それはどこかの星から見た、地球の姿でもおかしくない」
しかし、渡辺さんの詩の言葉は、絶望と向き合うことからしか本当の希望は見いだせないのだと語りかけてくる。
❘読売新聞 二〇一九年九月二一日❘

この記者の言葉を心に留めて、静かに向き合いたいと思った。


十二月一八日 朝日新聞 文芸欄
村田喜代子、『飛族』で谷崎潤一郎賞を受賞の記事。東日本大震災の年、村田先生はガン治療のため休筆されると聞いていたので、この記事は一段と喜ばしいものであった。受賞作『飛族』は「折々のことば」に登場していたと思い合わせ、本書のページを辿ると村田ワールドは変わらずユニークで健在。目からうろこの思いも味わった。


十二月 朝日新聞 広告欄
谷崎潤一郎賞受賞の発表後一ヶ月もたたないうちに、村田喜代子著『焼野まで』(朝日新聞出版)の新聞広告を目にした。ガン治療のため放射線を浴びる実体験をもとに綴られた文章は読む者の心を捕えて離さない。自分の体調はもとより、家族のこと、友人、患者仲間との交流、火山という大自然に向き合う土地の人々の生活・・・。どこを読んでも共感することが多く、自分もその場にいるような思いにかられた。
この厳しい現実に耐え快復されたこと何よりのことと安堵の思いでいっぱいである。
なおこの広告は新書版のものであった。調べてみると単行本は二〇一六年二月の発行。三年以上も前に作家活動に復帰して新作を出版しておられたことは嬉しい驚きであった。
作家と大学教授との両立、加えてガンとの闘い・・・不屈のお姿に敬意をお捧げしたい。

連載:梅花くすしく 第11回

2021.10.4

10 『短歌』「雪中悲報来」 秋葉四郎著
安森敏隆先生への哀悼歌

安森敏隆先生は一九七七年、梅光女学院大学日本文学科に着任。歌人としても高名で、学生や社会人に実作の指導もされた。一九八八年、同志社女子大学に転任されてからは「介護短歌」というジャンルを広められた。ご自身、奥様のお母さまの介護を通して、経験されたことがらや思いを詠むことによって、心を開放され、乗り越えることが出来たということから、同じ境遇にある人々に呼びかけられた。NHKテレビでも「介護百人一首」というテーマで公募があった。先生は選者をつとめ活躍されていたので、突然の訃報には驚かされた。先生のご逝去の報に接したのは、新聞の読者投稿欄に友人の方が弔意を述べられたものを目にしたからであった。そしてある日、我が家に届いたFAXは、カドカワ発行の雑誌『短歌』五月号のコピーであった。(FAXの送り主は元梅光女学院短大教授の原口すま子先生)。それは斎藤茂吉記念館の館長、秋葉四郎氏が「雪中悲報来」と題して安森先生を追悼されたものであった。


一月九日安森敏隆氏逝く

突然の悲報は雪中みちのくの茂吉記念館わがもとに来る
消息の絶えて半歳あはれあはれ悲報と共に故由(ゆえよし)を知る
かなしみに耐へ沈黙の時の逝き茂吉の森は雪降りしきる
父よりの遺言として知らせあり子息のこゑは亡き人のこゑ
ただ感謝するため遠く参りしと言(こと)にし出でて祈りささぐる
たまはりし恩に酬い得ぬ不本意が無念にてならず献花し居れば
キリストの御許に帰りたる君か別れて川西池田わが去る
所持さるる未刊歌集『とどろき』をめぐる茂吉論われは待ちゐき

お心のこもった〈献歌〉にお二人の友情、安森先生のお人柄が偲ばれる。
また、『梅光』五〇号(二〇一八年)には、安森先生への追悼文を武原弘先生(元梅光女学院短大教授)が寄せておられるが、その中に、朝日新聞のコラム「折々のうた」に安森先生の歌がとり上げられていたと記されている。そういえば・・・と思い出して自分の切り抜きで確認してみた。

妻は今夕べの鏡に入りゆけり髪かきあげて何のぞきゐる

大岡信の寸評には「ジャン・コクトーの映画などで学んだ技巧」とあり、安森先生の大きさを感じさせられた。

連載:梅花くすしく 第10回

2021.10.4

9 『西行桜』 辻井 喬著

「願わくは花の下にて春死なむ、そのきさらぎの望月のころ」の和歌で著名な西行法師に思いをはせ、書名に引かれて手にした一冊。竹生島、野宮、通盛、西行桜等々、能を意識しながら物語が進んでいく作者こだわりの短編集である。「通盛」の項に「赤間神宮で平家物語の勉強会が開かれ・・・」の一文があり、女主人公が「卒業した女子学園の講座を受講した」とあって、びっくりした。
梅光が「地域に開かれた大学」として早くから社会人を対象に公開講座を実践してきたことが作家の心に留められていて、このような設定になったのであろう。

この会は・・・多い年は年に三、四回。少ない年でも二回は開かれているという具合で数年続いていたのであった。メンバーのなかに国文学でも有名な梅光学園の教授がいたことは、この会を長続きさせる要素であった。❘中略❘ 母は月二回、卒業した女学院が校外授業として開いていた源氏物語講座や・・・の講演などに出掛けていた。
❘『西行桜』 一三一~一三二頁❘

この作品を読んだ当時(随分前のことではあるが)、学外講座で「平家物語」を担当しておられた宮田尚先生にこのことをお話ししたところ、作品の時代背景を考えると、自分よりも前の担当者であった村田昇先生のころでしょうねとおっしゃった。梅光女学院大学の公開講座は四〇年以上の歴史を持ち、近年は「アルス梅光」として多くの市民に学ぶ喜びを提供してきた。宮田先生も梅光女学院短大に着任されて以来、赤間神宮で「長門本 平家物語を読む会」を続けられ、大学の教授となられてからも熱心にとりくまれていた。つい最近までお元気でご活躍であったのに、二〇一八年の秋、訃報が届いた。「アルス梅光」の受講生で、講座の連絡係をされていた方の追悼文を通して長年「アルス梅光」にお力を注がれた先生を偲びたい。


宮田先生を偲んで
岡村映子(短日六)
  
昨年10月21日の早朝、その訃報は届きました。19日の夕方、先生から「今月の講義はお休みにします」とのメールをいただいたばかりでした。
  ❘中略❘
昨年の初めごろから、病気が病気だからと、時間を惜しむように講義をされていました。きっと先生は、毎回「これが最後の講義かもしれない」というお気持ちでおられたのではないかと思います。長年取り組んでこられた、赤間神宮での「長門本 平家物語を読む会」を、昨年4月に読了し、「源氏シンポジウム」では締めくくりの講演をされました。まるで、ひとつひとつの仕事を、整理するように終えられています。「下関で平家物語を読むことに意味がある」とおっしゃり、歴史の舞台で生活していることを感じさせていただきました。又、「時の流れの中で、あふれる情報の中から、信ずべき情報と、信じてはならない情報を冷静に分析することが、いつの時代にも大切な生きる知恵だ」と教えてくださいました。
平家物語の講義が始まってから、毎月いただいていた先生の随筆「〈平家〉余聞 海峡からの展望」が№二一一まで全て手元にあります。今後はこれを改めて読んでいくつもりです。
先生からいただきましたご恩に対し、深く感謝し、心からご冥福をお祈り申し上げます。
❘『梅光』五一号 二〇一九年❘

連載:梅花くすしく 第9回

2021.8.3

8 『生(なま)麦(むぎ)事件』 吉村 昭著

幕末から明治にかけて、激動の日本の姿が描かれている。資料から読みとって物語るドキュメントの手法は説得力に溢れている。事件の発端は、薩摩藩主の行列に出くわした英国人数人が道を空けなかったことに立腹して、薩摩の役人が作法知らずとばかりに彼等に切りつけ殺傷したことで、英国、幕府、薩摩の関係がギクシャクし、その上尊攘派の長州が関門海峡で発砲事件を起こし、薩摩藩は鹿児島湾で英国と実戦・・・と大混乱となった。
本書はこのいきさつを資料に基づいて個人名、数字など詳しく示しつつ、丁寧に描いている。海峡での出来ごとなど遠い事として忘れがちになっていたが、昨年は明治維新一五〇年、改めて身近に感じた。司馬遼太郎や古川薫の作品にも描かれ、大河ドラマにも登場して、みもすそ川公園には大砲のレプリカが設置され観光の目玉にもなっているが、本著では事件の後始末にふれ、英国側が賠償金を要求し、幕府は長州に命じて交渉にあたらせたこと、高杉晋作が、長州藩代表として英国船に乗り込み談判したことなど具体的に描かれていて迫力があり興味深かった。
巻末の「あとがき」に、著者の取材に応じられた方々への謝辞が述べられ、多くのお名前が記されていた中に「今村元市」とあるのをみつけた。今村先生は、梅光女学院短大・大学で一九八一年から一九九二年まで図書館学を担当され、また北九州市の郷土史家としても有名であった。奇兵隊を立ち上げ、倒幕の先頭に立った長州と幕府側小笠原藩(北九州)の戦いについて、今村先生はお詳しい方だったのかと偲ばれた。「もっちゃん」の愛称で学生にも親しまれた。笑顔が懐かしい。

連載:梅花くすしく 第8回

2021.8.3

7 『甘粕正彦(あまかすまさひこ) 乱心の曠野(こうや)』 佐野眞一著

往年の女優、木暮実千代(梅二一)を顕彰する会が二〇一二年に発足したのを機に彼女に関する資料を目にし、満映をはじめ、満州に興味が湧いた。甘粕は満映の理事長であり、終戦をもって自死した人物である。本著は甘粕に焦点をあてながら満州での人間模様を描いている。その中で、梅光及び下関に関連する人物の名前を目にした時の驚きは大きかった。その一人は藤山一雄である。藤山先生は大正一三年、梅光女学院の教員となり、専攻科創設に尽力された。当時の院長広津藤吉夫妻とも親交深く、冊子『広津先生の生涯』を残された。中でも「梅光井」に関しては広津夫人の貢献も大きく、前項の『朝陽門外の虹』での引用部分に藤山先生が書かれた文章を紹介させていただいた。
先生は梅光退職後、デンマークやスイスでの留学を経て、満州国国立中央博物館創設にあたり、副館長に就任された。今回、本著を読んだことを契機に改めて先生のご活躍を知り、思わぬ情報を知る事となった。例えば作家檀一雄の妹、寿美さんが、満州国国立中央博物館の職員であったこと、その当時副館長であった藤山先生の世話で結婚したこと、戦後帰国した彼女が下関の長周新聞でイラストレーターとして勤めていたこと等々、木暮や甘粕とは別に、興味深く引き込まれた。
二〇〇六年、梅光学院創立一三五周年を記念して、梅光学院大学博物館では「梅光女学院と藤山一雄❘その人と生涯をみつめて❘」展が開催された。このことを『梅光』三九号(二〇〇七年)に学芸員の佐藤睦子さんが紹介しておられる。それには、藤山先生愛用の太棹三味線も展示されていたと記されており、本書の一節に思い至った。

(藤山の)書斎にはトランペット、ピッコロ、三味線などの楽器類が雑然と置かれており、藤山の多趣味ぶりがうかがえた。
❘『甘粕正彦 乱心の曠野』 三六二頁❘

藤山についてはすでに述べたように、満州建国に際して独立宣言の草案を起草し、初代実業部総務司長や恩賞局長など満州国政府の高官を歴任しながら、義太夫を得意とし、小説を書き絵筆をふるい、音楽も玄人はだしという多芸多才な変わり種だった。
❘『甘粕正彦 乱心の曠野』 四七六頁❘

最後に当時の生徒から見た藤山先生像は・・・

専攻科担任の先生方はそれぞれに個性的な中で何と言っても圧巻は藤山先生で、何でも専攻科の習うべきことは全て彼に教わった。五年生の教室へ椅子を持参で教わったのは法政経済だったようだ。ドイツ語や、お気に入りの漢詩のコピーもたくさんいただいた。
❘堀山菊子(梅専1) 『梅光女学院遠望』 一六四頁❘

連載:梅花くすしく 第7回

2021.7.2

6 『朝陽門外の虹ー崇貞女学校のひとびと』 山崎朋子著

本著の出版を記念して山崎朋子氏の講演が大学キャンパス、スタージェスホールで行われた。
そのいきさつを、倉本昭先生(梅光学院大学 元地域文化研究所所長)が『梅光』四〇号(二〇〇八年)に掲載されているが、ここでは一部抜粋して紹介したい。

北京の天橋に「梅光井」なるものがあったのをご存じでしょうか。戦前のこと、飲み水すら乏しいスラムのことを聞いた広津藤吉先生が、生徒・教職員に呼びかけた結果、多くの賛助金が集まりました。そこで、矯風会・松風会という慈善団体の募った分と合わせて資金とし、スラムに井戸を掘らせたものです。
この美談に触れた『朝陽門外の虹❘崇貞女学校のひとびと』が2003年、岩波書店から刊行されました。内容は桜美林学園を創立した清水安三の一代記で、その中に「梅光井」の挿話がでてきます。
この本を書かれたのは『サンダカン八番娼館』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作家で女性史研究家でもある山崎朋子先生です。07年『朝陽門外の虹』中国語版の話題が新聞紙上をにぎわし、・・・先生ご自身来校を希望されていることがわかり、・・・ついに大学へお招きすることがかないました。講演会は同窓会と大学の日本文学会との共催で、・・・テーマは「女性史の窓から❘アジアと日本の女性交流をめざして❘」。  ❘中略❘
梅光を愛する同窓会のみなさまと、今の梅光で学ぶ学生諸君が、ともに会場を埋めながら、大先輩たちの美談を通じて母校の誇らしきアイデンティティーを確認できたと同時に、真のヒューマニティーについて深く考える機会をも得ました。
梅光が戦前から東アジアへのまなざしをそそいでいたことは、新たに門をくぐってくる世代にも語りついでいきたいものです。光の子たちの人間性の輝きが、かつて、虹となって北京❘東京❘下関にかけはしを作りました。今後も、校舎から地域社会へ、それを更に越えて、海峡を通じてつながる世界へと虹の橋をかけることが、わたしたちの未来づくりへの鍵となるはずです。
❘『梅光』四〇号 二〇〇八年❘

倉本先生は一九九七年梅光女学院大学日本文学科に着任しておられる。
〈梅光井〉のエピソードに触れた部分を『朝陽門外の虹』から二個所抜粋しておきたい。

水脈の豊かな日本でも、井戸を掘るのは多大な出費を覚悟しなくてはならない大事業だが、水脈の深い中国大陸では、日本に数倍する難事業だったのである。
真っ先に入用なのが資金だが、これは、山口県下関のキリスト教の学校である梅光女学校の生徒たちが醵金してくれた。完成した井戸が〈親善井戸〉と名づけられたのは〈日支親善〉の意味だが、また〈梅光井戸〉とも呼ばれていたのは、梅光女学校の生徒たちの好意への感謝からであったろう。
❘『朝陽門外の虹』 三三二頁❘ 
東京から北京を訪ねた山本琴子という人の「愛隣館物語」によるなら、親善井戸また別名=梅光井戸の使用状況は以下のようであった。❘「愛隣館の支那職員の一人が、或る長閑な秋日和の一日、朝八時頃から夜八時頃迄に水を汲みに来る老若男女の数を数へたところ、三百九十三名であったさうだ。ヤカンに汲む人、手桶、バケツ、手押し車などで水を運んで行く様々な水汲み風景が見られ、時にはゆっくりと愛隣館の庭に日向ぼっこをして行く人もあるさうである」、と。そして、「この夏、付近の大きい火事があった時にも、あの井戸は大働きをしたとの事、何もかもめぐみである」、と。
❘『朝陽門外の虹』 三三五頁❘

戦前の梅光女学院の生徒の活動がつたわってくるが、このことは学院の資料にも書き残されている。旧教員である藤山一雄先生が書かれた『広津先生の生涯』の中で、次のような文章があり、それは『梅光女学院遠望』にも引用されている。

かくて天橋の井戸はうがたれ、毎朝四時頃から掬み取りが始まり、そこの貧しい市民たちは清冽な水を飲用することができるようになった。(広津)先生は後年北京視察に出かけた折、一夜天橋の授産場に宿泊し、その井戸水掬みの実況を見たが、その井戸銘が「梅光井」と名付けてあるので、さっそく取消しを願い出たところ、矯風会会長林歌子女史はその意を了解して新たに「親善井」と改名し、今日もなお盛んに善用されている。・・・
❘『梅光女学院遠望』 一二六頁❘

藤山先生は、広津藤吉先生の奥様、志賀夫人が亡くなられた時には愛隣館では清水安三氏により盛大な追悼会が営まれたとも記されている。
また当時の生徒の手記も残されている。

関門海峡を通られる内外の著名な芸術家、宗教家、社会事業家、学者等々の方が、再三梅光に立ち寄られ、・・・全校生徒が講堂でお話を聴きました。 ❘中略❘
それは関門の一隅で私たちを、自分以外の事物に心を配ることや、広く世界に眼を向けることを当たり前のこととして考える人間に育ててゆきました。毎年秋の世界祈祷週間には見も知らぬ世界中の人々と同じ時に同じ心で祈りました。井戸の少ない北京の人々のために掘った井戸は「梅光の井戸」と名づけられました。❘後略❘
❘松隈佐記(梅二七) 『梅光女学院遠望』 三〇九頁❘

遠い昔の大先輩に拍手を送りたくなる逸話である。

連載:梅花くすしく 第6回

2021.6.9

5 『香草の船』 赤江 瀑著

赤江瀑氏は下関出身の作家で、一九八四年に泉鏡花賞を受賞された方である。
独特な作風でファンを魅了した。本著は、下関市蓋井島の神事をテーマにした論文を引用しながら都会の若者の死の謎に迫ってゆく物語である。その論文の著者、國分直一先生は「梅光女学院大学教授で、同大学地域文化研究所の所長でもある著名な民俗学者である」と紹介され、その論文を抜粋引用した旨、明記されている。
國分直一先生は、戦前、台北師範学校教授として研究と、学生の指導にあたっておられ、民俗考古学の世界的権威であった。
戦後、東京教育大学、熊本大学、下関の水産大学校を経て、一九七四年梅光女学院大学に着任された。「郷台地遺跡」の発掘には学生と共に尽力された。南方熊楠賞という大きな賞をはじめ数々の賞を受けられた。先生がご逝去された時、宮田尚先生が追悼文を綴っておられる。

❘前略❘ 八八歳で退職なさるまでの間に『倭と倭人の世界』ほか多数の著書を毎年のように出版するほか、雑誌『えとのす』の主幹をなさった。他大学に先駆けて、本学に地域文化研究所が設立されたのも、國分先生の力であった。❘中略❘ 先生の学問の中心には、台湾があった。大学卒業後、台湾で考古学や少数民族の民俗調査にあたられた先生は、いわゆる台湾学の基礎を築かれた。
❘『梅光』第三七号 二〇〇五年❘
國分先生の台湾時代の教え子、劉茂源先生は中国語担当教授として梅光に着任され、お二人の姿に麗しい師弟愛を感じさせられたことを思い出す。
『香草の船』はフィクションと論文の組み合わせという発想もユニークながら、神事の段取りの細やかさや、つつましい島民の生活が浮かび上がるような論文の暖かさに先生のお人柄が偲ばれる。
この原稿をまとめる作業をしていて、二〇一八年一一月、朝日新聞の「蓋井島の奇祭 継承へ簡略化」という記事が目に止まった。離島・蓋井島では奇祭「山の神神事」が行われる。辰年と戌年に催される六年に一度の祭で、二〇〇年以上の伝統があるそうだ。島民の高齢化のために中止も検討されたが、簡略化してでも伝統を守り継ぐとのことが、写真入りで詳しく紹介されていた。
『香草の船』には、次のようにその祭りについて記されている。

❘「山さらい」と「道つくり」❘
祭りの約十日前頃から、沖のしけた時を利用して集落から各山(森)に至る道路の手入れが行われる。(主として各組中の男の作業。月経時の女性は不参加。雑草の除去。崩れた場所の土あげ、埋め立て。浜の白砂を敷くなど)
山の森では祭りの前三日間をかけて神籬の周辺の清掃を行った上、枯れた立木を伐って、新しい神籬を作る作業が行われる。森の中に枯木を残さぬように注意し、枯れ木は根元から伐り取り、一間半乃至二間に整理して、もり寄せる。
神籬の前の土中に埋められている壺とその周辺の手入れ。 ❘後略❘
❘『香草の船』 七九頁❘
読み進むうちに、赤江氏と國分先生の熱い思いが伝わってきた。
伝統ある奇祭が守り継がれてゆくことを願うものでる。

連載:梅花くすしく 第5回

2021.5.21

4 『金子みすゞ こころの宇宙』 矢崎節夫著

児童文学作家であり童謡詩人でもある矢崎節夫氏は赤い鳥文学賞を受賞されている。また一六年もの歳月を経て金子みすゞの全作品をさがしあて、世に出した方として日本児童文学学会の「日本童謡協会特別賞」も受賞された。
本著では、みすゞの詩集にたどりつくまでのいきさつを次のように述べておられる。
「中学時代の友人、今井夏彦君が下関の大学で教えていて、」みすゞが下関に縁があることを知り今井夏彦先生にみすゞの手がかりを探してと頼んだことがきっかけで、みすゞの実弟のもとに保管されていた自筆詩集にたどりついたとのこと。
今井先生は梅光女学院短大、大学で、一九七四年から一九九二年まで英米文学を教えておられた。みすゞの詩集の発見にかかわっていらっしゃることはお聞きしていたが、矢崎氏がこのようにしっかり記録に残しておられるのは貴重なことと嬉しかった。
また、矢崎氏の「しかし、時は確実に甦りの時をきざんでいました」という一文はとても印象深く、みすゞの実弟に会えるまでのいきさつは感動させられる。

何度目かの訪問の後、ふと檀上春清さんの一文の中のことばを思い出したのです。金子みすゞは下関の商品館という建物に入っていた本屋の店番をしていたと。
❘金子みすゞという名前は忘れられていても、商品館という建物なら覚えている人がいるかもしれない。商品館という建物から捜し直してみよう。
さっそく今井くんに電話をして、このことを話しました。
「商品館という建物はもうなくなっているだろうが、そこに支店をだしていた本屋は残っているかもしれない。大正時代から続いている本屋を捜して、商品館に支店をだしていたか、もしだしていたら、金子みすゞという女性を知っているかどうか、尋ねてほしい」
電話で依頼した数日後の一九八二年(昭和五七年)六月四日、今井夏彦くんから電話が入りました。
「金子みすゞを知っている人が見つかった。下関の細江というところで、本屋をやっている花井書店の花井正さんという方で、金子みすゞのいとこにあたる人だ。商品館のことも知っている。君のことはよく話しておいた。今晩、君のほうから電話をかけさせてもらうようにもした」というのでした。
その夜、さっそく花井さんに電話をかけました。
「あなたのことは今井さんからうかがっています。でも、どうして今ごろ、金子みすゞのことを知りたいのかね」という花井正さんに、わたしは大学一年の時に「大漁」を読んで、金子みすゞを好きになり、それからずっとみすゞ捜しをしていたことを話しました。
「みすゞはいい子だったよ」と、花井正さんはいわれました。それから、商品館は今でいう名店館で、そこに上山文英堂という本屋の支店が入っていて、ここでみすゞが働いていたこと、みすゞはペンネームで本名は「テル」ということなどを教えてくださいました。
もっとくわしいお話をお聞きしたいので、明日一番の新幹線で下関にうかがいたいというと、花井さんは、「そんなにいうなら、わざわざ下関に来られなくても、みすゞの実弟が東京にいるので、そちらに行かれたほうがいいでしょう」と、思いもかけないことをいわれたのです。実弟とはどんな方ですか、というわたしの問いに、「上山雅輔といって、東京の荻窪にある劇団『若草』の創立者で、今も演出部長をしているはずです。『若草』の電話番号はわかりますか」「はい、調べればすぐわかります。それでは、まず上山雅輔さんにお会いしてから、一度下関におうかがいしますので、その時はどうぞよろしくお願いします」「わかりました。お待ちしています」
❘『金子みすゞ こころの宇宙』 二二~二三頁❘

もし、今井夏彦先生が梅光におられなかったら・・・もし、みすゞの実弟の消息をつきとめるのがもう少し遅れていたら・・・金子みすゞの世界は埋もれたままになっていたかもしれない。このドラマチックな現実を多くの人に知ってもらいたいという思いが強くなった。
今井先生は、秋の読書週間によせて次のように書かれている。

君たちは、図書館にある〈100冊の本〉の中の『わたしと小鳥とすずと』という詩集を知っているだろうか。・・・実は、この詩人は、ぼくの親友の矢崎節夫という童話作家が、5年ほど前に50年ぶりに発掘し、ぼくもその一役を担ったという事情がある。・・・子どもは大人のはじまりだという。しばし童心にかえって、みすゞの祈りの詩ともいうべき作品に耳を傾けてみようではないか。そうして、それぞれの秋にそれぞれの幼い自分に思いを馳せてみよう。
❘梅光短大図書館報『パピルスの森』三号 一九八七年❘
この頃から、金子みすゞの詩は脚光を浴びるようになった。
代表的な詩と、私の心に留まった詩とを紹介してみたい。

金子みすゞの詩


  大 漁

   朝やけ小やけだ
   大漁だ
   おおばいわしの
   大漁だ。

   はまは祭りの
   ようだけど
   海のなかでは
   何万の
   いわしのとむらい
   するだろう。




  みんなをすきに

   わたしはすきになりたいな、
   何でもかんでもみいんな。

   ねぎも、トマトも、おさかなも、
   のこらずすきになりたいな。

   うちのおかずは、みいんな、
   かあさまがおつくりなったもの。

   わたしはすきになりたいな、
   だれでもかれでもみいんな。

   お医者さんでも、からすでも、
   のこらずすきになりたいな。

   世界のものはみィんな、
   神さまがおつくりなったもの。




❘『金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと』
矢崎節夫選 JULA出版局 一九八四年❘

連載:梅花くすしく 第4回

3 『文藝』「わが漂流、下関行き」 北川 透著

北川透先生は一九九一年、梅光女学院大学及び大学院に赴任された。長年馴染んでこられた豊橋の街や家、築いてこられた職場、それに創刊から携わってこられた詩と評論の雑誌『あんかるわ』。あらゆるものを切り上げて、下関という未知なる街、梅光という知名度の低い大学に移ってこられたのは、当時の学長、佐藤泰正先生のお誘いがなかったらありえなかったと綴られている。

わたしは豊橋という街を愛し、その街にある愛知大学の学生たちが好きだった。そして、自分の子どもたちが育った家を取り壊してしまうことに耐えがたい痛みを感じている。多くの友人たちや知人たちと別れるのも、とても淋しい。しかし、どうしてもわたしの内部にあるものに決着をつけるためには、こういう方法をとるしかなかったのだ、と思う。
❘中略❘
わたしの〈漂流〉は、さしあたっては下関行きというところへ帰着したのだ、と思う。
❘雑誌『文藝』 河出書房新社 一九九一年四月❘

こうして先生は下関で、梅光で、活躍された。学内はもとより、中原中也賞の選考委員や中国新聞の「中国詩壇」の選者も務められた。
また詩集『戦場ヶ原まで』(一九九二年一〇月思潮社)、『続・北川透詩集』(一九九四年思潮社)、『萩原朔太郎言語革命論』(一九九五年筑摩書房)、『溶ける、目覚まし時計』(二〇〇七年七月思潮社)、『窯変論』(二〇〇八年一〇月思潮社)と詩集や論集を発表された。手にしてみたが、全体的に難解。そのことに触れて先生は次のように記しておられる。

詩を書く経験のなかで、もっとも大きいものは何だろう。それは常にことばと向き合い、ことばの生きた働きに注意している、ということである。
ことばが生き生きと働くということは大切だが、それは単にたくさんの人に伝わるということではない。それだったら、分かりやすく通俗的なことばを用いて詩を書けばよい。しかし、そこに本当に生きたことばの働きがあるのか、何かが伝わったとしてそれは何なのだろうか。むしろ、この世の中には、どんなにことばを尽くしても伝わらないものがある。そのことばにしえない心の闇にことばで触れること、そこに詩があるのではないか。
今年のもっとも衝撃的な事件としてこの暮れに誰もが触れるものに、旅客機によるニューヨークの貿易センタービルの破壊とテロがあるだろう。それが不気味なのは、そこにことばがないからだ。この世には、ことばが届かないところがある、ことばが通じない世界がある。だからその暴力的な解決としてテロや戦争が起こるのだろう。ことばにしえないものにことばで触れようとする詩があるところ、そんな詩を大事にするところに暴力や戦争は起こらない、と思う。
詩を書くということは、ことばの力に望みを託すことだ。アフガンにもきっと詩人がいるだろう。彼らはどんな歌をうたい詩を書いているのだろうか。
❘中国新聞 一二月二八日 「二〇〇一年選を振り返って」❘
他にも、先生のお書きになった、エッセイや評論、作品論などを通して、先生の奥深いところにある何かが伝わってくることもあった。「下関への漂流」がもたらしたものについて、お伺いしてみたい気もする。
しかしこの項目でいちばんお伝えしたかったのは、別のこと。ねじめ正一著『荒地の恋』(二〇一五年一一月文藝春秋)を読み終えて、巻末の参考文献一覧を眺めていたところ、そこに『荒地論 戦後詩の生成と変容』(北川透著)とあるのを見つけた時の驚きである。思わず「ほう」と言いたくなる気分であった。「荒地」は田村隆一を中心とする詩の結社。いろいろな詩人の出入りがあるが北村太郎もそのひとり。そして田村の妻との恋愛などと複雑な男女関係が展開するが、現実とは思えないなと、ちょっと近づきがたい感覚で読んでいたものだから、北川先生がお詳しいとわかって、急に身近に感じたりして、先生の幅広いお仕事を実感した。
先生が梅光に在職中に刊行された『続・北川透詩集』にサインをお願いしたところ、次のような詩を手書きで認(したた)めてくださった。海を見るたび今も心に蘇る。

ほんとうは/どんな色にも似ていないあの/海の色
そのたとえようもない/不思議な波動を/あなたに

連載:梅花くすしく 第3回

連載3回

『縦横無尽の文章レッスン』 村田喜代子著

村田喜代子先生は二〇〇〇年に、梅光学院大学文学部 日本文学科の文芸創作コース客員教授として赴任された。芥川賞作家の先生の著作は発表されるとその都度注目され、新聞・雑誌の新刊紹介欄や書評欄でとり上げられる。私が本著の存在を知ったのは田中貴子氏による朝日新聞での書評によってであった。

本書のユニークな点は、小学生の作文から理系の学者の文章、童話など、ジャンルを問わずおもしろい文章を教材として提示していることだ。それを読み、味わい、そして自分でも書いてみる。その繰り返しを基本として、何をどう書くかの具体的な実践方法が語られていく。何しろこれは、著者がある大学の文章講座で実際行った授業をもとにしているのだから、わかりやすくて役に立つのは当然である。❘中略❘
本を開きさえすれば、村田ゼミはいつでも開講中です!
❘朝日新聞 二〇一一年❘

実際、ページをたどっていくと、魅力にあふれる授業風景が展開しており、学生に戻ったような気になって引き込まれる。ナマでこの授業に参加出来た学生たちはなんと幸せなことだろう。前期第一週から後期第六週まで、毎回用意されるテキストと先生の解説。学生たちの反応は活発で、読んでいて大いに刺激を受けた。

良い文章というものはすらすらと読める。よくない文章はあちこちで引っかかり、疑問や矛盾が生じて頭に入らず、なかなか前へ進まない。すらっと読める文章は読み飛ばさないよう気をつけること。
良い文章と出合っても、自分が良い文章を書けなければ、読んでもなかなか気付くことが出来ない。どんなものが良い文章なのか、良くない文章なのか、わからない。だがそれでも一行ずつ手を取るように説明していけば、やがてゆっくりと理解の窓が開いていくだろう。
聞いている学生たちの顔がさっきより、ほんのりと明るくなってきた。
❘『縦横無尽の文章レッスン』 

村田先生の授業方法については、次のように述べられている。

教室で文章を書くときは大体いつも四十分間と決めている。原稿用紙は使わない。ノートを破いて一枚使用する。そのほうが集めた後でコピーしやすい。原稿用紙だと紙数がむやみに増える。筆記具は鉛筆。消しゴムで消して清書すればいい。
ときどきはパソコンで清書してもらうが、普通は授業ごとに必ず一回、このようにして書く。書くことに腰が重くならないよう、気軽に書こう。気楽に書こう。ひょいと書こう。下書きのつもりで書こう。気負わないで書こう。失敗しても書こう。
要は書くこと。
みんな思案し始める。鉛筆を握って考えている。こんなふうにいきなり書かせて結構書けるのが、若い人たちの素晴らしいところである。社会人になると、さあ書け、と言ってもさっとは案が浮かんでこない。若い人はそれが出来る。浮かぶのである。ただし、書かせないと出来ない。授業時間に有無を言わさず書いてもらうのはそのためだ。
書かないと、書き上がらない。書けば、書き上がる。
そういうことである。
みんなが創作に取り組んでいる四十分間、私は図書館に行って姿を消している。好きなようにしゃべり合ったり、トイレに立ったりして、自由に書いていい。さて、時間が経って紙を回収する。汚い字がずらずらと並んでいる。学生の文字の下手なこと。しかし字の汚い原稿ほど妙に中身は面白かったりするのだから、油断はできない。
書き上がった作品は授業の中休みを取って片端から読む。そしてこれという作品を選んで本人に朗読してもらう。最初のはショート・ショートだ。
❘『縦横無尽の文章レッスン』 

若返って、こういう授業を受けてみたい。
そんな「とほうもない」思いにかられる。学生たちは卒業して社会に出て、人生の歩みを進めながら若き日の幸せなひとときを思い起こすに違いない。どの頁を開いても肝に銘じたい言葉が溢れている。学生たちの若い感性、先生の鋭くも暖かい批評、ランチタイムのおしゃべりのウイット。書き写せばまるごと一冊、と思ってしまう。本著の中から、もう数個所引用させていただきたい。

北九州からJRに乗って週一回、関門海峡を越えて下関へ行く。門司駅の近くまでくると列車の窓に海が現れる。見るなり私はドキッとする。毎週、毎週、ドキッとする。
立て込んだ工場区の間に突然、真っ平らな、何もない、水だけのスペースが現れる。それがツーと車窓を横に滑っていく。こんな何もない水の空間は、普通、町の中ではお目にかかれない。風景がそこだけストンと真っ平らに凹んでいる。
こんなに何もなくていいのだろうか。こんな水の色だけの空間が都市の景色の中にまぎれこんでいる。工場と町と煙突ばかりのせせこましい土地に住んでいると、海や山や自然というものをつい忘れて暮らす。ふいに現れた水ばっかりの空間が、目に慣れない奇妙な景色となって迫る。
春先の晴れた日の海は、これまた目を疑うばかりの黄緑色だ。いつだったか学校で生物学の教授に聞いたが、春は海の中でも芽吹きの季節なのだという。それで山の新緑が引っ越してきたような色になるのだ。今朝の海面は黄緑に乳白色がふんわりと溶け込んでいる。なんでそうなるのか不思議だが、まるで入浴剤のバスクリン色・・・。
門司駅を通過すると間もなく列車は関門海底トンネルに潜る。轟々(ごうごう)と海の底をしばらく走って、対岸の下関の駅に着く。そこから市内バスで十五分くらい。町の通りには『〇〇雲丹本舗』だとか『ふぐ料理〇〇庵』だとか、『海鮮くじら亭』なんていう看板が目につく。トンネルを抜けると鉄の町から魚の町へ変わってしまう。
駅前で市内バスに乗って山手の町の大学へ。
❘『縦横無尽の文章レッスン』

大学の長い夏休みが終わると秋である。
学校へ行く途中、列車が門司に着いたときふっと気が変わって、下関行きに乗り換えるのをやめ、終点の門司港まで行ってしまった。
門司港駅の改札を抜けて外へ出ると、秋日和の海峡が日射しを一杯に溶かし込んで光っていた。駅のすぐそばから対岸の下関まで連絡船が通っている。ポンポンポンと音を立てて走る可愛い船だ。海路たったの十分足らず。今朝みたいな上天気の日は、暗い海の底を通るのはもったいない。連絡船は波を蹴立てて海上を走る。❘中略❘
船の切符を買って時計を見ると少し間があったので、渡し場の前の通りをぶらぶら歩いた。渡し場の建物とはす向かいに、戦時中の「軍馬の水飲み場」跡が残されている。❘中略❘
連絡船はあっという間に対岸の下関に着いた。
唐戸(からと)魚市場のそばの渡し場で降りる。海をはさんでこっちにはフランシスコ・ザビエル上陸記念の碑が建っている。 通りでタクシーに手を上げて、大学までワンメーターちょっとで行く。いつもより三十分ほど遅れて校門を入った。
ほんの短い朝の寄り道。

❘『縦横無尽の文章レッスン』


私達がいつも見慣れている風景もトンネルや連絡船も先生の手にかかると、とても新鮮なものとして迫ってくる。文章を読むこと、そして書くことのコツや楽しさ、日々の暮らしの中で身につけていきたい。最後に学生の文章を読んでみよう。お題は「二〇〇〇年間で最大の発明は何か」これはテキスト(ジョン・ブロックマン編 高橋健次訳 草思社 二〇〇〇年刊)のタイトルと同じである。
「ユニークな意見もあり、もう一息というのもあり、様々だった」と先生がおっしゃる通り大胆な文章が続く。一例をあげる。先生によると「この短さは凄い」のである。

髪ゴム
N・T ♀
女性が髪を結ぶことによって、女性らしくあることを捨てず、あらゆるスポーツにおいての記録をのばすことを可能にした。
世界のプロテニス・プレーヤーであるマリア・シャラポワのような、「恋もおしゃれも楽しみたい!」という、若きチャレンジャーたちが輝くための、画期的かつ低価格なものであることは間違いない。
❘『縦横無尽の文章レッスン』 

これに対する村田先生の講評は短くも流石!

これはまたリップクリームよりもっと小さなものだ。
髪の毛を束ねて止める、あの小さな黒い輪ゴム。
激しく飛び跳ねる女性の姿は魅力的だ。そして強い女性は美しい。ブラボー、髪ゴム。
❘『縦横無尽の文章レッスン』 

先生は二〇〇〇年から二〇一九年春まで足かけ二〇年間も梅光で授業をしてくださっていたことに驚く。もっと早くこの宝物に気づくべきだったと思う。

連載:梅花くすしく 第2回

連載2回

第1章 活字の中の梅光

=心豊かな学びの余韻=  権藤市津代

1 『時に海を見よ』 渡辺憲司著

渡辺憲司先生は一九七八年から梅光女学院大学で教えておられたが、一九八八年立教大学へ移られ、二〇一〇年立教新座高校の校長になられた方である。本著は東日本大震災直後、卒業式が中止されたため生徒に向けて学校のホームページにメッセージを公開したところ、ツイッターなどで評判となり、全国に広まったものに加えて、先生の持論を述べられたものである。二〇一四年梅光の同窓会総会で講演されたのを機に本書を手にした。
海を眺め、古典に学び、他者への思いやりをもって生きること・・・この大きな理念を忘れないようにと、わかりやすく力強い励ましの言葉は、若者のみならず、私のように年齢を重ねた者の心にも響いてくる。共感をもって読み進むうちに「梅光女学院短期大学は理念に殉じた」という一節に出会ってハッとした。

高校三年生を送り出した後、私は下関の女子短大へ転じた。
その短大は二〇〇四年度から学生募集を停止し、大学に統合され廃止となった。
創立の理念を守り通した伝統ある女子短大であった。理念を守り時代に逆行した例であるかもしれない。教育にもっとも必要なのは、理想を追い求めることである。キリスト教主義による女子教育を標榜したこの短大は、浮薄な時代の流れの中で、理念に殉じたといってもいい。
真面目さに真正面から向き合う学校であった。習慣性のある規律が、教育の本柱となることもここで学んだ。
日本の教育行政は、あまりにめまぐるしくその方向性を変えている。不易な理念を確立する努力を惜しみ、流行に翻弄され、奔走して来た。現場の叫びを無視し、教育に目前の功利を求め、若者たちの未来を奪っていったのではないか。長く、広く、大きな評価を放棄した教育は、若葉の芽を踏みつけにする。 下関は海峡の町である。
海峡を流れる潮は、東から西へ、西から東へと、激しくその流れを変える。潮流は中世の武家社会成立の流れを大きく変え、源氏を勝利に導き、また、倒幕を促し、市民社会の明治を招来した。時代を語り継ぐ海の町である。
海と、自然と、向き合いながら、この町は私に落ち着きを与えた。私の学問研究の源泉である。
❘『時に海を見よ』 双葉社 

右に引用させていただいた部分は、先生の梅光に対する深い愛と下関の町に対する暖かいお気持ちが綴られている。「殉じる」ことの是非はさておき、このように明記されると梅光の教育方針は、私の中でいっそう輝かしいものとなった。
大学へ通われる道すがら、目にされたであろう響灘。研究テーマをもって散策されたであろう関門海峡沿いの散歩道、先生は海と向き合いながら思索を深めていかれたことと推察される。梅光と下関の町に注がれる先生のまなざしを嬉しく思った。
また次のような文章に出合ってさまざまに姿を変える「海」の無限の姿に改めて気づかされた。
言語学者で国語学者でもある金田一春彦の著書『日本語』によると、英語や中国語など他の言語に比べると、日本語は海の中の場所の違いを区別する言葉が豊かだという。日本語には、「沖」、「浦」、「灘」、「浜」、「磯」、「渚」といった言葉があるが、中国語にはないらしい。これら日本語独特の言葉が存在するのは、日本の風土が様々な美しい景観を有しているということだ。
 ❘『時に海を見よ』
 
この指摘により日本の風景が日本語の繊細さと豊かさををもたらしていると教えられた。

この冊子の準備のため、気忙しくしているころ、雑誌『明日の友』(二〇一七年冬号婦人の友社刊)に渡辺憲司先生と村田喜代子先生の対談が載っていると友人から知らされ、タイミングのよさにびっくりした。
テーマは「心浮きたつ旅をしよう」。読みながら旅の達人は人生の達人という思いを強くした。
「自分の心がどこかに連れ去られること。それが〈旅〉だと思うのです。」(村田)
「旅は若さを呼びますからね。」(渡辺)
お二人のことばに納得。大いに励まされた。

渡辺憲司先生は現在、自由学園最高学部長になっておられる。

連載:梅花くすしく 第1回

この度、権藤市津代さん(高13卒・梅光学院短大図書館・中高国語科教員勤務)と安冨惠子さん(短大・大学勤務)の共著で「梅花くすしく」が刊行されました。限定数の非売品ですが、贈呈を受けた方々はそれぞれに感銘を受けておられます。同窓会にも贈呈をしていただきました。
同窓会はお二人にお願いして、その内容をホームページで紹介する事にいたしました。多くの同窓生に読んでいただきたいと考えています。
掲載は、連続ものとして紹介する形式をとります。

「梅花くすしく」感想…懐かしい先生方からのお手紙

☆今井夏彦
寒中お見舞い申し上げます。 この度は「梅花くすしく」2冊送っていただき、どうもありがとうございました。
この本は皆さんにとって思い出という宝物がたくさん詰まった玉手箱ではないでしょうか。ページを開くたびにさまざまなできごとが蘇ってまいります。気がつけば昔に戻ったように思い出にひたっています。
これからますます寒くなります。
どうぞくれぐれもご自愛専一の程、お祈りいたします。 本当にありがとうございました。

☆北川透
此度は『梅花くすしく』二冊は拝受しました。お世話様でした。出かけていて、返事遅れ失礼しましたが、同窓会ホームページの件、ご随意になさって下さい。


☆渡辺玄英
新年あけましておめでとうございます。
『梅花くすしく』の刊行、とても喜ばしく、内容も充実して読みごたえがありました。刊行に至るまでにたいへんなご苦労があったのではと拝察いたしております。
同窓会のホームページ掲載には、大賛成です。今こそ、梅光の真価を新たに思い起こす時と感じております。そして決して失われないでいてほしいものです。新型コロナの感染拡大が止まりません。どうぞご自愛されてお過ごしください。
敬白


☆島田裕子
拝復
新しい年の初めのお慶びを申し上げます。御書賜りありがとうございます。ホームページ等の掲載承知いたします。御書 読み出したらとまらない力作ですね。良き梅光を思い出し、それこそ梅光の根幹だと思いました。御身御大切になさって下さい。
かしこ


☆渡辺憲司
謹啓
寒い日が続いております。コロナ禍も続き、まるで薄氷を踏むような毎日が続いています。
不安な日々の中で、あたたかな心温まる御編著をいただきました。
心よりあつく御礼申し上げます。下関、梅光での日々は、私にとって学問・研究の源泉だと感じていましたが、研究のみならず、私の血肉の源であったと、御編著を読み強く感じました。
又、小生のことをとりあげていただいたことも、思い出の記憶として望外の思いにて、心より感謝御礼申し上げます。
あらためて下関での思い出が湧き上がってきました。殊に、佐藤先生、向山先生のことは、心にしみました。本書を読まれる方は、尽く梅光の礎に御二人の大きな力のあったことを心にとめることと思います。
梅光の未来の大きな糧となることであろうと確信します。
御二人のご苦労に心よりの敬意を表します。
まことに、小さな宝物をいただいたような心持です。日々の祈りの中で本書を思いだすことと思います。いつの日かまた海峡の海を見に参じたいと思っています。三月末で自由学園を辞しますので、時間が出来そうです。
御身くれぐれもご自愛のこと、心より祈念いたします。
敬具


追伸
二月末に、小生が自由学園最高学部長ブログで取り上げた話題と“時に海を見よ”の一部を再掲載した文庫本が角川より出版予定です。その本に佐藤泰正先生の訃報に接した時のことを記し新収しました。刊行されましたら御送り致します。
書名は仮題で「生きるために本当に必要なこと」ですが、どうも人生読本のようで気に入らずにいます。
安富さん、向山さんのこと何も知りませんでした。アメリカでの苦労話は庭でよく聞きましたが、あらためて先生への尊敬の思いを強くしました。文教台のこと、家内と一緒に読みました。思い出の二人で胸がいっぱいでした。安富君にくれぐれもよろしくお伝えください。


連載1回

梅花のかおり


権藤市津代

高齢化の波が押し寄せ、古き良き梅光を知る人も次第に少なくなっています。
心寂しく思っているとき、本や新聞、雑誌などを読んでいて、思いがけない一節に出会い思わず「エッ」とか「ほう」とか言いながら、胸躍ることが何度かありました。「梅光」というキーワードに触れた時です。梅光で教えて下さった先生方のお書きになったものや先生方に関する評論など、ずいぶん古くなった記憶も掘り起こし自身の覚え書きとしてまとめてみました。
人としての生き方、教育のあり方、自然が教えてくれる厳しさ、瑞々しさ、また文学や歴史の奥深さなど改めて多くのことを教えていただきました。
第二章では『遠望』や『梅光』誌の中から梅光ならではのエピソードの数々をご紹介しています。
第三章は安冨惠子さんによって、幡生の文教台に寄せて「梅光ファミリーのこと」、渡辺憲司先生、向山義彦・淳子先生、佐藤泰正・亰先生のことなどご紹介いただきました。いっそう充実したものとなったこと、この上ない感謝でございます。
また、表題の『梅花くすしく』は校歌の一節「関門の空 高く輝きて 梅花くすしく 匂えるところに・・・」がふと心に浮かび、この小冊子の題として「梅花くすしく」はどうだろうかと思い至った次第です。
卒業生お一人お一人が心に留めてくださることを願いつつ。


あの頃のこと


安冨惠子

私は非常勤講師として、一九八六年秋から十数年、梅光短大におりました。
その時期はほとんど、権藤さんと重なります。権藤さんはずっと司書として、短大の図書館におられました。
図書館の入口の掲示板には、折々の新聞、雑誌などから、梅光関係のニュース、梅光関係者に関する記事、その著作、書評など、切り抜かれて、コピーが掲示されていました。
それらを目にするのは楽しかったし、誇らしくもありました。 図書館の職員の方々は、毎日目を皿のようにして、その切りぬきにいそしまれていたことでしょう。その習性が、権藤さんの「活字の中の梅光」の根源に在ると、私は思います。
「梅光」と聞いただけで、見ただけで、背筋がしゃんとするような、胸が熱くなるような梅光愛が、権藤さんの中にも、他の同窓生の方々の間にもあるのだろうと思います。
今回、長年ためて来られた、それらの断片の集成が小冊子にでもなればと願いお手伝いをさせていただきました。書物にするためにはどのような内容、体裁を整えるべきか、いくぶんかの時間がかかりましたが、実現出来たことは何よりと思います。 

新緑の頃

片山宣子

 4月も中旬を過ぎると山は新緑に包まれる。様々な木々が新しい芽吹きで複雑な色合いを見せてくれる。赤紫系統から灰白色までの幅広い色調、緑のグラデーションも豊かに山全体が正に新緑の季節である。

 この時期になるといつも思い出すのは50年前に俳句について教えていただいた青山なを先生のことだ。粋な和服姿と鼻筋の通ったお顔。梅ケ峠の山々の、新緑の息吹をため息交じりに眺めながら「緑の毒気に苦しくなる」と語っておられた。あの頃の私は若く、繊細な先生の感覚は理解できず、ノートに先生の似顔絵をスケッチするのに夢中だった。でも不思議に先生の言葉は印象に残り、今も覚えている。

 現在、私は先生の年齢に近づいているが、この時期を乗り切るにはかなりのエネルギーを必要とする気がしている。自分の誕生月が近くなることも関係するのかもしれないが(年齢を一つ重ねるという思いは大きい)、圧倒的な自然のエネルギーに対峙する内なる力が必要だ。毎日の雑多な忙しさの中で自分を見失わずに明るく生きていくこと、納得できる自分らしさを持ち続けることは簡単ではなく難しい。そんな思いに打ちのめされて新緑のエネルギーに打ち負かされ日が続くこともある。苦しい日々ということもあるのだ。

 話は全く変わるが、先日親戚で集まることがあった。おいしい食事をいただきながら、50台になる理系の現役世代と60代で資格を生かして第二の仕事をしている二人の男性と私の三人で話が弾んだ。海外に住むことが多く、やっと日本も面白いと感じるようになった50代は、今、農業に関心大で、農業と科学知識で新しいことを生み出したいと意欲的に仕事を楽しんでいる様子。話が竹林のことになり、竹の利用について話していた時、60代が、こちらは建設業を長くした人物だが、「僕らの業界では竹は水分を多く必要とするもので、竹林のある場所は工事を避けたい地盤だと見るよ」と話しだす。本当に面白い。人は自分の知識や経験で自分の見方を構築する。だから同じものが違って見える。なるほど、だから異業種交流が必要だし、異文化、異なる意見が重要になる。知識や経験の重要性、陥りやすい独善性にも思いが拡がる。学び合うのは面白いし、心も頭もお腹も満足の午後だった。

 最後に、同窓会総会・懇親会に出て久しぶりに友と会い、それぞれの見方で、いろいろと語り合うのも楽しいと思いませんか。お待ちしています。

四月

片山宣子

 今年は、4月1日が土曜日であったため、年度初めが3日からというところが多かったようだ。テレビニュースの入社式報道が四分休符の後みたいな印象があった。エイプリルフールの話題が耳に入らなかったのは、私の年齢のせいだろうか?それとも現実がエイプリルフールみたいで、しかも笑えないそれであるようなことが多いせいだろうか・・・?

 取り留めないそんな思いとともに4月が始まった。

 学院では長年院長職を務められた中野新治先生が退任され、理事会で樋口紀子学長兼任ということが決定され、発表があったとお聞きした。大学は4月3日が入学礼拝、中高は7日が入学礼拝である。大学は昨年度に続き定員を上回る入学生を確保したと聞いている。多くの方々の努力があったのだろう。中高の入学生は苦戦しているようである。7日の入学礼拝に参加してみようと思っている。新校長の下で新年度が始まる。入学生の希望に満ちた挨拶に期待したいし、真新しい制服姿も楽しみだ。下関は春冷えが続く天候のせいでいつもより桜が遅く、7日の入学礼拝の頃が見ごろになるだろう。

 我が家でも今、五分咲きである。この桜は植えて30年を超えたのでなかなか美しい。今年は花付きもよく、毎朝桜を観察することが日課になっている。5輪の花が咲くのに4日かかった。五分咲きの今日は、春の嵐のような風の中で枝を揺らしながら咲いている。小雨も降っているが若い花はその色や可憐さを損なうことはない。気づけば海棠の花も咲きだしている。例年だと桜が散ってから咲くのだが。田舎道の土筆も今年は遅く数が少ない。移り行く季節の中で不順な気候の変化は小さな一つひとつに表れているようだ。当たり前のように季節は巡っていくのであるが小さな変化に心を留めてみたい4月である。

春の仕事

片山宣子

 風が冷たい。わずかでも日差しがあるとその温かさに嬉しくなる。そんな春の日、ミカンの苗木を植えている。天気が目まぐるしく変わり霙も降ってくる。

 仕事を辞めた後の生活は、田舎暮らしにふさわしくできるだけ自給自足に近い生活をしてみよう。その為には自分の手足をできるだけ使う生活をしよう。時間をぜいたくに使い丁寧な暮らしがしてみたい。等々。農業の一年生スタートとして考えていたが、農作業はそんなに甘くない。連れ合いは1メートル近い穴を掘りたい肥を入れ苗床を作り準備する。土がこなれ苗を植えるのだが、苗木の細い根を傷つけないように拡げて大事に土をかけて植えていく。十分に固めた上から水もかける。腰も痛いし、ゴム引きの手袋の中の手もかじかんでくる。土と付き合うことは無心の忍耐力が必要な気がする。合理的に、手早くと考えてしまう自分の在り方が太刀打ちできないと思わされる経験だ。

 夜、テレビでさまざまな外国人の意見を聞く番組があり、日本の傾きかけた会社が全員掃除で再生に成功したという事例を扱っていた。全員に掃除を強制するのは賛成できない。(なるほどと頷ける)自分は頑張って教育を受けたのだから掃除をしろと言われるのは侮辱されたと感じる。(?これは頷けない)この意見に同意する人が少なくないことに驚いた。

 教育が格差を生み出す現実は残念ながら今や事実であるが、その格差を埋めていく働きも教育の目標なのではないか?高等教育を受けた自分は掃除よりもっと高度な仕事で能力を発揮する方が合理的と考えるのは善なる価値判断だろうか?いろいろ考える。

 掃除するしかない人々を、自分のことのように考えるという価値観を柔軟に持ち続ける人間でありたいと思いながら、少なくともその努力はしたいと思いながら畑の草を抜いている。終わりのない春の仕事である。

寒中お見舞い申し上げます

片山宣子

 昨年は天災や人災が続き、社会情勢も揺らぎの多かった年でした。新しい年も変化や混迷の予感ばかりが語られますが、皆様お元気でしょうか?

 今日、下関は寒風にさらされています。山陰の海岸は打ち寄せる白波で、191号線を走ると車は潮しぶきをたっぷりと浴びました。

 さて、年の初めの同窓会は新会員を迎える準備と大学・短大卒業生の会「海峡会(仮称)」の成功を目指します。「海峡会」は大学短大の卒業生の親睦交流会です。これを契機に学年を超えて人のつながりが生まれることが望まれます。同窓会誌の準備も始まりますし、総会もあっという間に近づくことでしょう。考えると心配になりますが、この寒さの後には立春を迎えるように、未来の展望は必ず開けるものだと信じて頑張りたいと思います。宜しく応援下さい。

 皆様のご健勝をお祈りいたします。お風邪を召されないように・・・。

クリスマスの季節

片山宣子

 12月の同窓会事務局は、なんだか大変あわただしい。安成さんが、80歳以上の同窓生へ送るクリスマスカードの準備、磯谷さんは傘寿のお祝いのお茶の準備、畠中、北村、岩男さんはメールのチェックや会員登録の整理をする。あまり広くない仕事部屋は熱気に満ちている。コール梅光のチャリティーコンサートは盛況のうちに実施できて本当に良かったと明るい話題で盛り上がる。時間があっという間に過ぎていく。

 12月、今年最初のクリスマス礼拝は、コール梅光のコンサートの礼拝だった。「風に立つライオンでありたい」という福岡YMCA理事長齋藤皓彦先生のメッセージは胸に響き勇気を与えられるものだった。(ああクリスマスを迎える意味を考えよう。様々な災害に見舞われた多くの人々が、この自分であっても何の不思議もない事実を胸に刻みたい。等々、色々な思いが沸き上がる)

 17日(土)は中高のクリスマス。女子校最後の高校三年生が、丸山の丘でハレルヤを歌う。生徒たちにとっても心痛むことが多かっただろう一年がどのような祈りになってクリスマス礼拝が持たれるのだろう。良いクリスマスであって欲しい。

 22日(木)は大学のクリスマス礼拝。今年から学生数が増えたので学生中心のクリスマスになり、いつもハレルヤコーラスの助っ人だったコールの出番はなくなった。18歳から90歳(以上も)まで、いつでもハレルヤが一緒に歌える学院という伝統を体現していたものが消えるのは残念な気もする。だが、定員確保は喜ばしいことでもある。

 自宅には教会からクリスマスコンサートや礼拝のお知らせが届く。通知にも個性があるが、聖書のみ言葉が小冊子になって届いたのは嬉しかった。やはり12月は聖書の言葉に立ち返りたい。私自身は何度もクリスマス礼拝を重ねるのには抵抗もある。喜びの時だが、静かに過ごすことの大切な時期だと思うからだ。ベツレヘムの12月の深夜はきっと深い静寂に、慎ましい人の心に満ちていたと想像する。冬の寒さの中で、冷たい夜気を吸い込み夜空を眺めたい季節なのだ。

佐藤泰正先生召天一年記念礼拝

 召天日の11月30日、13時より下関教会で執り行われた記念礼拝には、約40名の人が集まりました。卒業生有志をはじめ、先生と出会った人々が静かに佐藤先生を偲び、先生の深い人柄を思い起こす時となりました。

 一部は下関教会三輪従道牧師の司式による礼拝でした。
 ローマの信徒への手紙7章7~25節の朗読に続き、佐藤先生の文学者としての「人間探求」が、同時に「福音の準備」の働きであったことが、聖書の語る罪の問題と共に語られました。また常に穏やかで威圧感とは無縁の本物の存在感を持つ先生のお人柄の魅力が今も鮮やかに生きていることが語られました。

 二部は思い出を語る会でした。
 吉津先生・武原先生・安富先生・伊豆一郎さん(大学卒業生)などが語り手でした。
 佐藤先生が、教え子、同僚、後輩の教師を励まし育てて下さったことが様々なエピソードと共に語られました。
 中でも、この日先生のご命日だから何としても教会で祈りたいと、記念礼拝のことは知らずに参加された「百花の会」のお二人のお話と詩の朗読は印象深いものでした。
 先生が市民グループの現代詩の学び「百花の会」を40年以上に亘り指導されていたことが紹介され、参会者はあらためて先生の深い情熱や広範な人間関係に心打たれました。  「佐藤先生に出会った人生は、それまでの人生、出会わなかった人生とは全く違うものになりました。」という「百花の会」の方の言葉を、一人ひとりが胸に刻むひと時でした。

 最後に安富恵子先生から奥様、亰先生の近況が報告されました。(多くの卒業生が美術の授業を受けたことを思い出されることでしょう。)亰先生はご親族やヘルパーさんの支えを受けて穏やかにお元気にお過ごしとのことでした。

*先生を偲ぶ集いとしては、大学院卒業者を中心とした「はまゆう会」主催の会やアルスの特別講演会などもありました。(報告者 片山宣子)

下関教会「召天祈祷会」に参列して

 「召天者記念礼拝」が下関教会でありました。11月6日午前10時15分、礼拝開始。梅光関係者、とくに広津家の納骨や今年8月昇天された滝本先生の納骨も執り行われるという事で同窓会役員も参列しました。
 廣津藤吉、廣津信二郎、廣津ヤス、廣津シガ、前田よしえ、滝本哲也、井本文子、他の協会員の方々、13名の遺影が飾られました。廣津信二郎先生の御子息の健さんご夫妻もお見えになりました。
 三輪牧師が「主と共に眠る者の幸い」という題でお話をされました。
 その後、教会墓地のある観音霊園に移動して、墓前礼拝と納骨式が行われました。
 初冬の暖かい青空のもと、関門海峡を見下ろす静かな墓地で永遠の眠りにつかれました。同窓会からの花も飾られました。 同窓会からは片山と磯谷が出席しました。

「秋深まる」

片山宣子

 10月中旬から11月初旬にかけて、下関近郊の町々でも様々な行事が開催される。地区の小学校や幼稚園と連携しての運動会、地域活動の発表会の文化祭などである。収穫を終えたこの時期には神社の秋祭りもある。東京ではハロウィーンに向けてのイベントがあるようでニュースを賑わせている。楽しい文化の秋満載という風景だ。
 私も退職後、地域のボランティア活動に参加している関係で参加する行事もあった。しかし一方では、人口の減少をその度毎に感じている。60代、70代、80代の人たちが行事の主体者である。若者、子供が少ない。東京のハロウィンナイトの様子とは大違いである。私用で時折上京するが、「人口密度」「若者たち」という言葉を実感するのがその折で、地方との格差を強く感じてしまう。実際はその東京も人口減少に向かっていくようであるが。
 私は地方が好きである。ニュースでさまざまな事象が伝えられる時、今流行りのコメンテイターが「でも経済効果がありますよ。凄いですね」とまとめる姿に胡散臭さを覚え、日本人はどのような文化や価値観を根っこに持ちたいと考えているのかと独り言を呟いている。世界からクールな日本と評価される根底にあるのは何だろうか。GNPではないだろうと思うのである。自然から育てられる豊かな感性、人や物に対する丁寧で真摯な姿勢、時に対する穏やかな向かい合い方などの価値は再認識されるべき根底ではないだろうか。深まる秋はいろいろと思考を促す力があるようだ。
 野道には、黄色いツワブキの花が咲いている。海の近いこの辺りでは、この可愛い花はアラカブを釣りに行く合図でもある。一刻秋を楽しもう。

「9月」

 9月の彼岸が過ぎるこの頃、下関近郊ではあちこちで稲刈りが行われ、あぜ道に真っ赤な彼岸花が咲き始めます。彼岸花は曼珠沙華とも呼ばれますが、「葉見ず花見ず」とも呼ばれるとか、よく言ったものだと古人の観察眼と言語感覚を面白く感じます。野ネズミから田の畔を守るために毒を含んだこの植物を植えたという知恵にも驚きますし、それを捻挫の湿布薬にも使ったとか、生活から生まれる知恵の豊かさは感動モノです。(何も河豚を食した歴史を教科書で読むだけではないな・・・)

 花言葉は色々あります。「あきらめ」はわきに置いて、「情熱」「独立」「再会」などの花言葉が今の私にはいいなと思いながら花の群れを眺めているこの頃です。

「酷暑・八月」

 毎日暑い日が続きますが、同窓生の皆様、お元気でお過ごしでしょうか?

 同窓会誌の発行が一段落した7月から、新しい本部体制の活動が始まりました。総会の時にホームページの立ち上げをお約束しましたが、やっと始めることができました。このHPを、これから同窓生みんなで一緒に育てていきたいものです。情報をできるだけ早く発信し、広く意見を聞きたいと思います。パソコンが苦手とおっしゃる方もおありだと思いますが、どうか同窓の友人や家族の助けを通して参加していただきたいと思います。「YOU・友・遊・座」は、趣味や特技を楽しむことで交流を深めたいと設定をしています。先ずは俳句や川柳、短歌や詩などを自由に寄せて下さい。生活雑感を300字以内にまとめたエッセイなども楽しみですね。参加者みんなで自由に創り、育て、交流を深めましょう。

 さて、この度の会誌発送後、宛先不明で返送されたものが700余通ありました。住所変更もHPからできるようになりました。ご利用ください。また、早速に運営費へのご協力をいただいております。本当に感謝でございます。ありがとうございました。今後ともご支援いただきますようお願い申し上げます。下関では8月13日関門花火大会があります。関門地区に久しぶりのご帰省を計画なさっておられる方もいらっしゃるでしょう。ご自愛くださり楽しい八月をお過ごしください。