小 話

連載:梅花くすしく 第21回

2022.03.28

3 我が回想の佐藤泰正・亰 邸(続き)

安冨惠子

台 所


リビングのコーヒー用キャビネットの脇から台所への入り口があった。ドアはなく、台所の床は、コルク地のクッションフロア。ちょっと珍しい。入ってすぐ右手に電子レンジ用棚。そして正面つまり家の東側に面して厨房セット。出窓には、大きく本格的な浄水器が取り付けてあった。先生のお宅はお金をかけるべきところにはきちんとお金をおかけになる。さすがだなあと思っていた。流しの下の開き戸の中も、何で覗いたことがあるのだろうと不思議に思うのだが、確かにびっくりするほどきちんと、鍋やボール類等が収納されていた。そういえばKさんと共に奥様にシュークリームの作り方を習ったことがあった。厨房セットの左側に冷蔵庫。実はこの冷蔵庫を何度か開けさせていただいたことがある。そして、びっくりした。カルチャーショックだったと言ってもよい。
とにかく、清潔でがらんとしていて、整然としていたのだ。例えば、お豆腐などはすぐにパックから取り出して、タッパーに移し替えられていた。そして、こまめに水を取り替えられるのだ。すべてにおいて見事であった。
厨房セットの向かい側、つまりリビングの壁と背中合わせの位置に、食器戸棚が二面ほど並んでいたようだった。こちらの戸棚は主に、和食器や普段使いの食器等が置かれていたのではと思う。そしてその前に小さな配膳用テーブル。よそのお宅の台所の詳細をしげしげと眺めたわけではない。何となく気配で今は語っている。後に、奥様が腰を痛めておられた時、毎日のようにお惣菜を作ってお届けになり、器に盛り分けて膳を整えられていた同窓生の方がおられて、その方の方がよほどご存じであろう。先生のお好みの器を考えて盛り付けるのは楽しかったと言われた。本当に先生方は多くの方から愛された。

台所へは、玄関から勝手口へ続く廊下からも入れるのだが、そちらの入り口から、入ってすぐ右手に、確か野菜専用の冷蔵庫が置かれていたと思う。これは私達が「いもばん」を習いに行っていた間に、「今度こういうものを買ったの」と見せられたので、「いいですねえ」と言ったのを覚えている。とにかく、奥様はほとんどそとには出られない。私が文教台に越してきたころは、買い物にも出られないで、いったいどのようにお暮しなのかといぶかったものだ。そのうちに分かってきたことは、お豆腐やお肉や食料品は前にも述べた自然食のMOAから。そして、お野菜は確か「みずほ」とかいうグループから届けられていたと思う。お魚はどうだったのか分からなかったが、そういえば、週に一度ほど、バイクに乗ったガンガラ部隊みたいなおばさんが、佐藤家に立ち寄られていたようだ。ただ佐藤家では、生魚、つまり刺身は決して召し上がらないとだいぶたってから聞いて、たまげたものである。魚は必ず火を通したものを用いるのが鉄則であった。これも奥様の潔癖であった。ただ、出前のお寿司は別であった。
あるとき、奥様はこう言われた。「昔、腸からにじみ出るように出血が続いてね。どうしても原因がわからない。結局お医者様がこう言ったの。あなたがあまりに潔癖なので、あなたの潔癖が腸にそうさせるって」。それで納得したようなことを言われた。

「いもばん」に通っている間に、「食」のことについてはいろいろ教えていただいた。また「いもばん」の思い出を綴るとき、語れればと思う。


洗面所・浴室


家の東側に勝手口があり、ちょっとした土間の側に洗濯機が置かれていた。その横に洗面台があり、その向かいに浴室があった。浴室のドアは換気のためかいつも開けられていたが、覗いたこともないので、よく分からないが、いつもカラリと乾いていたような記憶はある。


トイレ


玄関を上がって左手に御手洗いがあった。これがまた見事であった。いつしか、ドアを開ければ蓋が開く最新式のものに替えられていた。床は褐色の大ぶりの陶製タイルで、いつも艶やかで、清潔で、いい香りがふっとした。ほれぼれするようなお手洗いで、気持ちが清められるようであった。


階段・二階


玄関からの廊下を進むと、台所の手前で右手に階段があった。階段を上がると踊り場で、右手にご夫妻の居室。確か電気こたつがあり、テレビがあって、先生方がくつろがれ、お休みになった部屋である。この部屋の西側の奥に納戸のようなスペースがあった。



踊り場から南に面した二室があり、奥が先生の書斎(外観から類推して六畳)、手前が奥様のアトリエ(類推して四畳半)である。先生の書斎がとりたてて広いということもない印象であった。私は先生の書斎に入らせていただいたことはない。実は、二階には確か一度か二度上げていただいただけである。
「いもばん」を習い始めてしばらくたったころ、奥様はKさんと私に「着物を見せてあげますから、二階にいらっしゃい」と言われた。つまり、奥様が友禅として描かれたり、いもばんの版を押したりされた着物である。
段ボール箱一つか二つ、あるものは着物に仕立ててあったような、反物のままだったような記憶がさだかではないが、次から次へと取り出される作品に息を飲んだものだ。
奥様のアトリエは、とにかく狭く、その上今まで描かれた大きな絵が立てかけてあるので、奥様はその残りの狭いスペースでイーゼルを立てて描いておられた。
絵を描く場合、必ずモチーフとなる場所とか植物とかがあり、それらをスケッチしてきたり、写真に撮ったりして描いておられたようだ。「これは下商の階段の銀杏の木ですよ」とか、「これは西高へ曲がる角の石垣ですよ」とか言っておられた。リビングのギャラリーに最後まで飾られた「桜の木」二面はまさしく忠霊塔の桜であった。
奥様はよく言っておられた。「この家には、デッド・スペースと言うものがないのです。すべてのスペースがが機能しています」と。 確かにそうであった。


外回り・庭


佐藤家の門扉には今でも、コードを輪っかにして黒い絶縁テープをグルグル巻きつけたものが掛けられている。いつの頃からか門扉の左右のかみ合わせがうまく行かなくなっていたのを、奥様が苦肉の策でお作りになったものと思える。確かにその輪っかのおかげで門扉がきちんと合わさっている感じになった。九〇歳を過ぎられた奥様の工夫と実行力に感心したものである。
門扉の階段を上がってまっすぐ進むと、右手に勝手口、それに向かい合うようにして、書庫がある。この中には先生の書籍はもちろん、奥様がお父様から画学生の時に買ってもらわれた東西の名画の複製画集などもあり、ある時、「いりませんか、必要でなければ捨てようと思うの」と言われたので、捨てるのは忍びないといただいて来た。今でもうちの納戸のタンスの中にある。また、ある時、骨董好きの父上が門司の○○楼とかいう料亭の店じまいの折に手に入れられた五客の脚付きのお膳を見せられ、あなたのところは外人さんが来るから、これでもてなしたらどうか、と言われた。さすが料亭の物らしく、花鳥風月が華やかに描かれたものだったが「いただきます」というと喜ばれた。
書庫から、そのまま奥へ進み、南面の庭に出ると、左手に物置があり、台所の壁に添うようにもう一つ物置があった。そして洗濯物の物干し台。この物干竿は門扉から正面に見えるので、ここに洗濯物が干してあるかどうかが、一つの安否確認となった。洗濯ものがきちんと干してあれば、奥様はお元気なのだと思えた。
この物置の中に、「いもばん」の作品の仕上げに、不織布に筒状に巻いて蒸すための蒸し器が入っていた。習い始めて何年かは、布に呉汁を張り、シリアス染料で版を押し、この後不織布で巻いて、蒸しあげる「色ドメ」の工程が必要だった。奥様は、「この蒸し器はあなた方お二人に最後は差し上げますからね」と言われた。「私が亡くなったらね、すぐはだめよ。佐藤が落ち込んでいるでしょうからね。でも、半年くらいたったら、おずおずと佐藤に言いなさい。『あのう、奥様があの物置の中にある筒状の蒸し器を、私達にくださるっておっしゃってたんですけど』ってね。」Kさんと私は思わず吹き出した!
  その後、京都の田中直染料店では、「エスカラー」という染料が開発され、呉汁を張る手間も蒸す手間もいらなくなった。いきなり布に版を押しても、いくら洗濯しても色落ちしないのである。奥様はその簡便さにいくぶん不満気であった。色の深みが違うと言われた。
庭には、花梨の木とバラの木と、その他にもあったのだろうが、思い出せない。奥様は、毎日家の周りを一巡すればいいのだと言われた。その際、目についた草を取る。一日一〇本。すると、庭はいつもきれいだと言われた。私も見習いたいと思ったけど、出来るものではなかった。油断するとすぐにはびこる篠ササは、根気よく根元から摘めばやがて消滅するとも言われた。これも真似をしようとしたが、出来るものではなかった。

今年も、門扉横の見事な「しだれ梅」が咲いた!この家が建った時のお祝いの植樹だったのだろうか。同窓生の方々数人でこれをお植えになったそうである。しだれ梅の木の根元に「チロリアンテープ」が揺れている。

先生がお亡くなりになって、三年がたち、奥様も亡くなられて一年が過ぎた。でも表札はそのままに、置かれている。もう少し、このままでいさせてほしい、と切に祈るのである。
いつも我が家の庭に出ると佐藤家が見えた。あの家には小宇宙が宿っている気がして、励まされていた。

先生、奥様、ありがとうございました。

またまた日が立ち、やっと何とか書き終えた。今日は二〇一九年五月二四日である。


あとがき


狭い範囲での読書、量も乏しいものに過ぎませんが、「梅光」というキーワードを通してみると一段と感動が深まったと思われます。この小冊子が出来るまでのいきさつも、読者の方に共有していただきたいと思い書き記すことに致します。
安森敏隆先生への哀悼歌を雑誌『短歌』で読んで心動かされたこと、矢本浩司先生の講座で、「インプットとアウトプットは同時に併行して」と言われたことがきっかけです。一緒に受講していた友人の武内信惠さんに相談したところプリントにしてみんなに読んでもらったら・・・との返事。パソコン入力は彼女が引き受けて下さることになりました。客観的アドバイスを安冨惠子さんにお願いして感想を伺うと、資料名の紹介だけではなく、先生方のお書きになったものを具体的にお示しした方がよいのではとおっしゃいました。改めて資料の読み直しからのスタートとなり、原稿の追加・訂正の連続で入力係の友人には想定外の負担をかけることとなりました。活字の中から浮かび上がってくる先生方のお働きを通して学院が貫いてきた教育、学問への姿勢をお伝えできればと願うところでございます。
御著書の本文引用をお許し下さった先生方に心よりお礼申し上げます。またいろいろの情報をお寄せ下さった方々、ありがとうございました。
今回の冊子の制作に当たり、安冨惠子さんがひとかたならずお支え下さいました。『梅光女学院遠望』の感想文をお寄せ下さったこと以来の深いご縁を感じます。
同窓会誌『梅光』や『梅光女学院遠望』の引用転載をお許し下さった同窓会の方々にお礼申し上げます。
最後に、題字・挿画・装幀に携わってお支えくださった皆様との一体感は言葉に尽くせません。
また若い世代の卒業生にも色々とご協力をいただきました。多くの方々がお気持ちを寄せて下さったことを何よりのお力添えと感謝致します。
なお、この小冊子の発行日は広津信二郎先生のご召天の日七月四日とさせていただきました。
ありがとうございました。
権藤市津代
 


この度、権藤市津代さんの「活字の中の梅光」をお手伝いして、『梅光女学院遠望』の感想文を収録してくださるというお話しで、それだけでありがたいことでしたのに、結局第三章として、その他のものまで収めていただいて、望外の喜びでございます。『梅光女学院遠望』の感想文は、一九八七年秋に、短大宗教部森田美千代先生より「チャペルニュース」に書いてほしいと依頼され、それが翌年の『梅光』誌に転載されたのでしたが、この『遠望』との出会いが、梅光との私の出会いを決定づけました。その時から、「私の梅光」になってしまったのでした。
この小冊子は、権藤市津代さんの梅光へのひたむきな愛と、その愛ゆえに心にとめてこられた多くのことをもとにしています。またこの小冊子は、同窓の武内信惠さんとの友情の力で成り立ちました。
願わくば、梅ケ峠で東駅で丸山で、内なるアドレッセンスをすごした方々がもっと語ってくださることを期待しつつ。
神がこの小冊子をお用いくださるようにと祈ります。
安冨 惠子

二〇二〇年(令和二年)七月四日

連載:梅花くすしく 第20回

2022.03.15

3 我が回想の佐藤泰正・亰 邸

安冨惠子

今は二〇一八年六月、佐藤亰先生が亡くなって半年以上過ぎた。
先生のお宅は、夫と忠霊塔へのウオーキングの帰りに通りがかり、いつも見上げる。「佐藤」の表札はそのまま、玄関の石段に覆いかぶさるように「しだれ梅」の木が繁っている。
人が住まなくなった家は急速に生気を失い、外壁に蒼苔がうっすらとはびこりつつある。夫は毎回、天を見上げ口にして言う。「佐藤せんせ~い、天で、広津先生と一緒になって、今の梅光、どうにかなるように祈ってくださ~い。亰先生ももうそちらでしょう! どうか亰先生もご一緒に。」
今、先生たちのお宅のことを書きとどめておかなければ、私の記憶の中でもそれは風化してしまうと焦りに似た気持ちで、一旦あきらめかけた思いに鞭打つ。思い出す限り、出来るだけ客観的に描写していきたい。

実に見事に完結したお宅であった。
佐藤家宅は、広津信二郎先生が佐藤泰正夫妻を住まわせるための教員住宅として、建てられたものである。泰正先生亡きあと、亰先生に立ち退きを迫るようなこともせず、どうぞお住まいくださいと言われた梅光に感謝するとともに、出来れば、佐藤泰正記念館として残してほしいと願っていた。



文教台を開発した山陽チップ工業は、梅光の研究者のお宅を請け負うということで、意気に感じて喜ばれたようだったと亰先生から聞いたことがある。だから、玄関わきの風呂場の前を、わざわざガラス窓をはめ込んだ壁を「数寄屋」風にしつらえたのだと思う。この壁はつい立てのように風呂の窓などを来客の視線から守って趣があった。文教台の他のどのお宅を見ても、そんなことをしてもらっている家はない。その壁と窓の間には、玉砂利が敷いてあって、この玉砂利はいつもきれいに保たれていた。これは亰先生の心意気であったに違いない。
それから、玄関左手に大きな甕(カメ)が置いてあった。門扉から石段を登って玄関へと進むうち、右手の生け垣の足元に、何かしら和花が植えてあった。折々に桔梗やホタルぶくろなどが咲いていて、そのたたずまいに感じいったものだった。文人風なお宅であった。


玄関の間


玄関戸は二枚のガラスの格子の引き戸。山陽チップは木材の会社なのか、この住宅地の家々の玄関戸は自社製が多かった。先生のお宅の玄関戸も、数寄屋風壁にはめ込んだ窓と対をなす仕様であった。この戸にはいつも厳重にカギがかけられていて、お訪ねするたび、三和土まで下りてカギをはずしてくださる先生や奥様に申し訳ない思いがしたものだ。




三和土はいつも拭き清められたようにきれいで、何かさわやかな香りがふっとした。あれは何だったのだろう。三和土の上には左手前に「観音竹」の鉢植え。その続きに下駄箱。その端に青銅色の壺があって、長い靴べらが入れてあった。下駄箱の上には、奥様手作りのいもばん更紗の布が敷かれていた。その上に何やら古めかしい壺、それに、奥様は折々の花などを、独自の美意識で生けておられた。いただかれた花束も奥様流にアレンジされた。むしろ花のない時の方が多かったが、その壺だけでも絵になった。端のほうに小さな塗りの木箱、荷物受け取りのための印鑑が入っていたようだ。正面の戸の上方に「雨にも負けず」の詩の木彫り額が掲げてあり、これは後に、教え子の方が「高野山の僧侶に彫らせたもの」であると分かった。
三和土の上がり框前には平たい石の沓脱、そして上がり框の木は巾三〇センチくらいあったろうか、その続きは鶯色の絨毯敷き込みになっていた。玄関から洗面所に続く廊下と、居間は全て同じ色の絨毯敷き込みであった。おそらく四〇年以上お暮しであったから、それは最後のほうにはすり切れたように薄くなっていたし、ところどころ、ブカッとするところもあって、ヒヤリとしたものであった。おそらく先生ご夫妻はどこがブカリとするのかわきまえて上手にかわしながらお過ごしであったのだろう。
上がり框に向かって正面に、階段下になる押入れ戸棚が作ってあって、その引き戸の中は実にきちんと仕分けされていた。先生宅には毎週土曜日の午前、MOAという自然食品の商品が宅配されていて、豆腐、油揚げ、お肉など、「いもばん」を習っていた近所の人たちも四、五人一緒にその購入に加わっていた。大きな車が先生宅の前に止まると、みんなで声を掛け合いながら、お宅に伺ったものだった。その際、何か必要があると奥様は、ひょいと後ろの引き戸を開けて紙袋など取り出してくださったものだ。MOAの商品の中に「ミレーのビスケット」というのがあって、奥様はお気に入りで、時々コーヒーと一緒に出してくださった。素朴で香ばしい味がした。


和室(六帖)


玄関右手の板の引き戸を開けると、そこは六帖の和室であった。入ってすぐの右手に、亰先生のお父様の何やら時代物の屏風と、節くれだった厚さ一〇㎝はありそうな天板の座卓が鎮座していた。父上は骨董がお好きであった由。
床の間には、掛け軸。その前にいもばん更紗の袱紗をかけた櫃(ひつ)があり、何か飾り物が置いてあった。これも骨董らしかった。
掛け軸は毎年一一月の泰正先生の誕生日頃には、奥様は苦労して架け替えておられた。梅光女学院大学書道過程の先生から、何かのお祝にいただかれた軸のようであった。「学長」という文言があったように思う。だんだん思い出してきたが、「我らが学長」を称えるような漢詩が書かれていたように思う。それを奥様は、先生の誕生日頃から架けて、祝意と励ましを表しておられた。そのお心づかいに打たれるものがあった。
このお部屋は、「いもばん更紗」の教室にもなり、ご病気の時の寝室ともなった。西側の腰高の窓には障子が嵌められており、いつも障子の半面は開かれていた。おそらくこの家にお住まいになって、四〇年余りの間、この障子は一度も破られたことがないらしく、それゆえ張り替えられた形跡もなかった。ひたすら、それは薄鼠色になり薄く薄くレースのようになっていた。私達は、この障子戸が開けられていれば、今日も先生方はご無事であると、判断したものである。時に泰正先生が風邪など召されて、この部屋で仰臥しておられる時には、この障子は閉められた。
ついでに、先生が風邪などひかれると、熱がある場合には最初医者にかかられるけれど、後は、徹底して、安静にして、レモンのしぼり汁などを摂られて、自然治癒に努められるのが常であった。それが亰先生流の看護術であった。もちろん、各種のサプリメントはふんだんに用いられていたが、時間がかかっても、身体が身体自ら鋭気を取り戻すまで、養生なさったので、それが先生方の長寿につながったのではないかと、思える。
そして、何かの折り、この寝室のしつらえを垣間見ることがあったのだが、それはそれは、見事な布団の整え方であり、真っ白なノリの効いたシーツが端然と敷かれていた。亰先生の潔癖であった。それから、先生も奥様も最後まで、ベッドはお用いにならず、布団で通された。布団の上げ下ろしは、何よりのリハビリになると、医者に言われたとおっしゃっていた。

この西側の障子の下方に、文机が置かれていた。その上には、泰正先生の一〇年日記。そして、風水を信じる教え子が、西側には、何か黄色いものを置くといいですとくださった黄色いちりめんの小鳥が置かれていた。文机に向かって、左側にこれまた骨董であろう違い棚の飾り戸棚があった。そういえば、この戸棚には、東南アジア的な仏像が飾ってあったような覚えがある。


居 間


玄関の間から正面の居間の入り口の戸は、分厚い一枚板で、これを閉めてしまえば、玄関との間仕切りは完璧で、中で来客などがあっても、ほとんど内容など聞こえないし、また玄関の応対からも守られるようになっていた。
居間はこのお宅の心臓部で、いったい何から話していいかと思うが、一番は応接セット。木製の椅子三脚が窓側、二脚が和室側の向かい合わせだった。木製に帆布が張られたもので、座位と背もたれが布製クッションのものであった。おそらく昭和五〇年代には最新モダンな品であったろうと思われた。そのうち、これらのクッションの布はくたびれてきたのだろう、奥様はあるとき大丸に行かれて、ミッシーニのフェイスタオル、赤と黒と黄土色の合わさった模様のものを5~6枚買って来て、全ての椅子の背もたれに取り付けられた。それはそれで味があった。さすが!という思いであった。和室の引き戸を背に庭を見晴らす椅子が泰正先生の定位置であり、お亡くなりになった時もここで、リンカーンの彫像のようであった。
もう一方の椅子は、腰高の庭に面する窓際を背に並べられ、いつ伺っても、この窓ガラスはピカピカに磨かれていた。この窓には日中カーテンなど引かれず、一本の薄ピンクのバラや花梨の木などが見えた。バラは、窓からちょうど見えるように、高さを考えて仕立ててあると言われていた。
実は、奥様はこの家が建てられる前は、大畠(おおはた・今の東駅の大学キャンパス)の教員住宅にお住まいで、その頃バラを四〇本程道沿いに栽培していたと言われた。通りがかった人から、きれいですねとよく言われたとおっしゃっていた。それを一本だけにして、ここへ持ってきたそうだ。バラ栽培に関する話も、「いもばん」の時によく伺った。九月と二月の剪定のこと、消毒のこと、マルチングのこと、その都度、ノートに書き留めていたが、そのノートも今では見当たらない。そして京都の「タキイ」から、何本か、バラ苗を取り寄せていただいたりもした。「バラの値打ちは何といっても芯高のものですよ」と言われた。奥様の庭のその薄ピンクの上品なバラも、挿し木にして、うちで何年かは咲かせたけれど、結局いつの間にか消滅してしまった。 両側の椅子をはさんで木製テーブル。上には奥様手作りの「いもばん更紗」のテーブルセンター、それから奥様の「猫を抱いた少女」の絵葉書を嵌めこんだ鍋敷き。コーヒーの時は練乳のようなミルク入れと褐色がかった氷砂糖みたいなのが入った砂糖壺が出された。
この椅子に腰かけて、入り口から右手にある壁面が、奥様の絵のギャラリーであった。折々に描きあげられた絵が、数カ月ごとに、この壁面に掲げられた。泰正先生はそれが何よりの喜びのようであった。
絵の下の空間は、ステレオセット。それからアルバム等が揃っていた。LPレコードもあったかもしれないが、LPレコードは、居間に入っての正面のキャビネットにも入っていたような気がする。その上に鉢植えなど。教会での読書会からは毎年、クリスマスに白いシクラメンを探してお贈りしていたが、それはそこか、もしくはその近くの床に置かれていた。八〇歳を過ぎた泰正先生が、このリビングで、夜レコードをかけて、好きなように身体を動かして踊るんですよ、と言われたことがあって、びっくりしたが、確かにそれこそが、先生の若さと、柔軟な思考の源泉のように思えた。
居間に入ってのすぐ右手わきには、半月型の小テーブルがあって、そこには、先生と奥様の読みかけの本などが置いてあった。先生は読書会で取り上げる本などは必ず奥様にも読ませて、その感想を聞かれていた。奥様の感性というのは鋭くて、相手の本質を見抜くところがあった。私も一度自分の書いた文章をお見せしたことがあったが、奥様は「何か自分が自分が、というのが出ている」と評されて、恥じ入ったが、やられたとも思った。それでも、そんな者にも憐れみをかけて下さった。多分、同じ教会員というのが根底にあったのかもしれない。
そのテーブルの上方に、奥様の自画像の油絵の小品が飾ってあった。襟のところの片方から、白い部分が出ていて、今とは違ってルーズな重ね着などしない時代にちょっとその下着のようなはみだしに戸惑っていると、奥様は、どうしても、この絵にはそこに白が必要なの、と言われた。
泰正先生は時々、言われていた。「わたしはなで肩の矢絣の着物など着たおさげ髪の女性が好みだったんですよ。なのに、家内を見てくださいよ、背は高いし、いかり肩だし・・・」と楽しそうに笑われた。
奥様は、「私達は結婚してから恋愛したの」とおっしゃった。

玄関から居間に入って右半分はリビング的空間、左半分はダイニング的空間であった。ダイニングの空間は半間程庭へと突き出ていて、その境の壁面に、一二客のコーヒー椀皿のコレクションが飾ってあった。
ダイニングテーブルは大きく、ある日、これに掛けられていたテーブルクロスが、とても素敵でそれを口にしたのが、私と友人Kさんの二人が奥様に「いもばん更紗」を習うことになったきっかけである。



リビングに入って左側の壁面に、食器棚が二つか三つ並んでいて、高級で重厚な家具というより、昭和五〇年代頃によくあった化粧板とか合板とかいう素材でできたものであった。それらにずらりと、奥様が集められたコーヒー椀皿のセットが並べられていた。豊前田に在った舶来品をよく扱う店で手に入れたと言われていた。ドイツ製の手描きのセット、また、卒業生の親御さんから二客頂いたものがとても気に入り、大丸に行って、同じものを買い足したと言われた品もあった。
ダイニングから台所に抜ける入り口があって、その手前のわきにコーヒー・メーカーが置かれている腰高のキャビネットがあった。コーヒーは京都の「イノダ」から缶入りを取り寄せておられて、佐藤家でいただくコーヒーは、コーヒー通でない私にも、とてもおいしいと分かった。

連載:梅花くすしく 第19回

2022.02.24

「瞑想の間」での結婚式へ

昭和三六年九月八日、義彦さんは羽田から帰米する。これからは彼女と共に生きる人生が始まる。「結婚」と言うものが人生において、ことさら義彦さんの人生において、どれほど大きな意味を持つことになるか、この後の二人の状況を見て深い感慨を覚える。あっちゃんをベイラ―大学の修士課程への留学生として受け入れてもらうのが一番いい方法なのだが、彼女はまだ、慶應大学に卒論を出し終えていない。しかしこの問題においても、結果的には「仮入学許可」という方策があってクリアできた。また彼女の保証人の問題もあったが、金魚の藤内さんが喜んで引き受けてくれた。
昭和三七年一月二九日、いよいよ待望の淳子さんがサンフランシスコに船で到着することになった。待ち受ける義彦さんの喜びは如何ばかりか!
結婚はしても、結婚式を挙げることまで考えていなかった義彦さんだが、周囲の人たちの慶びの発露として、彼らの知らないところで、結婚式の段取りが大学を挙げてなされていく。いかに結婚と言うものが、欧米社会において、大きな意味を持つ「祝福」であるのかに目を開かれる。例えば、結婚をすると聞いただけで、大興奮するアパートの大家のおばさんの姿がおもしろい!



義彦さん本人は、東洋から来た一人の名もない留学生という自覚なのに、周囲は、結婚をすると聞いただけで、二人をヒーローとヒロインに変貌させるのである。


最後のクライマックスー花嫁衣裳盗難事件!


実は、花嫁淳子さんは白いスーツケースに、日本から花嫁衣裳としての美しい着物を持ってきていた。ところがそのスーツケースは、ロサンゼルスからグレイハウンドバスに積み込んだはずなのに、いつまでたっても到着しない。実はロサンゼルスで盗まれていたのである。淳子さんのショックは譬えようもない。海を渡る彼女のために母や姉が用意してくれた入魂の着物なのである。そして、奇蹟にも近い幸いでスーツケースは見つかった。しかし、ここからが、手に汗握る展開である。果たして、それが二月二日正午からの、アームストロング・ブラウニング・ライブラリー「瞑想の間」での結婚式に間に合うのか!ロス市警は本人が受け取りに来るのでなければ、スーツケースは引き渡せないという。ここで読者はアメリカという国の広大さを思い知ることになる。宅配輸送システムもない時代、簡単に取りに行ける距離ではないし、経済的余裕もない。圧巻は、間に合わなければ、だれかのドレスを借りてでもとにかく式を挙げれば、という案に毅然として、大学事務局で言い放つ義彦さんのことばである。



「申し訳ないが」
気が付いたら、そう切り出していた。確かにお金はない。素晴らしいアイデアを紡ぎ出す知恵も、それを実行する力も、私にはない。しかし彼女の夫はただ一人、私だけである。その私がここで諦めることだけは、絶対にすべきではなかった。
「あのキモノは私たちにとって、とても大事なものなのです。彼女の母と姉が、自分達が見ることのない結婚式のために、彼女に持たせてくれた唯一の品です」
話し始めると、オフィスの全員の視線がこちらに集まった。・・・ただひたすら思いを伝えるために、必死に話していた。それが日本語か英語か、考えることさえなかった。
「あのキモノでなければ、式など挙げる意味がない。中止にして頂いて構わない」
そう言いながら、隣にいるあっちゃんの手を取った。
「何より大事なのは、彼女自身の幸せなのだから」
あっちゃんは、その手をそっと握り返してくれた。(三七四頁)



そのうちに、グーチ博士が小さく息を吐いて、再び受話器を手に取った。私は緊張に身を固くして、その動作を見つめた。
「先ほど電話したベイラー大学のものだが」
電話口に向けて、グーチ博士が言った。どうやら電話の相手は、さっきのロサンゼルス市警のようだった。グーチ博士はそこで一呼吸置き、さっきよりも静かな、しかし極めて厳格な声で続けた。
「明日の結婚式は、我が大学を挙げて行うものだ。花婿も花嫁も、わが校の大事な生徒だ。このベイラー大学の威信にかけて、トランクを渡してもらう」
講義中でさえ、グーチ博士の口からこのような重々しい声は聞いたことがなかった。私は驚き、周囲を見回した・・・。
「今すぐ航空便でトランクを送ってくれ。送料はベイラー大学が持つ」(三七六頁)

かくして、聖なる結婚式はギリギリ四時まで開始を延ばして、行われた。司式の牧師を宗教主任が務め、ウエディング・マーチはピアノ教授が務めた。それに先立ち、失われた花嫁衣裳の帰還はメディアの取材を受けるまでになった。
結婚を機に、二人の生活はこの国で落ち着いた。
・・・ちゅうちゃん。人生に生きる意味があると思う? と問いかけた康彰くんにも、今なら「そんなこと、決まっているじゃないか」と答えられると思った。
「大丈夫。うんと稼ぎますから」と言ったあっちゃんとの暮らしは、根を下ろし、義彦さんはもう焦ることもなく、一年に一科目のペースで博士課程を修めていった。八年目にして、男児(貴彦さん)をそれから五年して女児を授かり、ついに博士号を取得し、昭和五一年五月一四日ベイラー大学の卒業式を迎えた。義彦さんは何と五三歳であった。
昭和五三年に帰国。そのまま、明治学院での恩師広津先生が、山口県下関市にある梅光女学院に呼んで下さった。「教員用のアパートも世話してくれた」とある。梅光アパートである。
鬱病と診断されていた康彰君は昭和五三年十月、病院の四階から飛び降りて自死した。血の染みのついたウインドブレーカーを義彦さんは捨てるには忍びず引き取る。さりとて、妻子のいる家にも持ち帰れず、それは研究室の机のいちばん下の開かずの引き出しの中に封印されることになる。
この自伝風小説のプロローグとエピローグにこの引き出しが登場する。隠退する老教授が研究室を去る日のこの引き出しのことが。中のビニール袋を手にして、義彦さんがちょっとよろめいた時、迎えに来たあっちゃんがそのビニール袋を取り上げて小脇に抱え、空いた手を差し出してくれる。その手の温もりは結婚したあの日以来変わっていない。

康彰。人生は生きるに値するよ。
ちゅうちゃんは、そう思うよ。
それに応えるように、さくらの花びらが一枚、ひらひらと舞い落ちていった。(四〇七頁)

この言葉でこの小説は終わっている。この小説を監修されたのは息子の貴彦さんである。一瞬、プロローグとエピローグの仕掛人は貴彦さんかと思った。その貴彦さんは二〇一八年三月五日にお亡くなりになっていた。前年八月にこの小説が上梓されている。腎臓がお悪いことは知っていた。淳子先生がどれほど、枇杷の葉を丹精して貴彦さんのために用いておられたことか。一枚一枚タワシで産毛を取ると言われていた。
この本を読み終わった後の正月、東京の淳子先生に私は年賀状を出した。「義彦先生がもっと早くこの小説を書いて下さっていましたら、私たちにとって義彦先生は雲上人ではありませんでしたのに」と。淳子先生からは、猫とも思えないほど可愛い「きなこ」という猫の写真入りのハガキが届いた。



淳子先生にはお世話になった。一九八九年春、米国夏留学について問うた時、福岡のアメリカセンターに行って調べて、いくつもの大学あてに手紙を出してサマー・セッションについて尋ねなさい、単なる語学研修ではだめですよ、ちゃんと大学院で単位を取ってきなさいと言われた。その後、推薦状が三通いるんですと言ったら、「一つは主人に書いてもろたらよろしい」、と言ってくださった。この時の関西弁に私の中の関西弁が反応したのだったがその謎が今回解けた。奈良の大和市のご出身だったのだ。多分、義彦先生は面識もない私のことを書くのを渋られたと思う。それでも何とか書いてくださったのは、淳子先生の執り成し以外にない。ささやかなお礼にクッキーをお送りしたら、お金がもったいないですよ、紙一枚でも大切に使うんです、と言われた。ちなみに、後の二通は吉津成久先生と佐藤泰正先生にお願いした。
二〇〇七年度から私はアルスの児童英語を担当して、二〇〇九年九月その水曜のクラスをあろうことか失念し、何分か過ぎて血相変えて駆けつけたことがあった。廊下で職員の方が待ち構えていて、急遽向山淳子先生がピンチヒッターをしてくださっていると言われた。先生は何かぬいぐるみのようなものを持ってきて、楽しそうに子供たちに教えてくださっていた。私は平謝りに謝って、先生は名残り惜しそうに出ていかれた。
そんなことがあったからではないのだが、小学生高学年のクラスで英文の意味とりを訓練する翻訳教材に、貴彦さんの『ビッグ・ファット・キャットとマスタード・パイ』(Big Fat Cat and the Mustard Pie)を用いるようになった。淳子先生は二〇〇一年に貴彦さんと共著で、『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』(幻冬舎)を出されていたから、実践編としての『マスタード・パイ』は、これこそ、梅光ファミリーとして用いないわけはないと思っていた。淳子先生は喜んでくださったと思う。二割引きで生徒たちは手に入れることが出来た。ある日、アルスの授業日に淳子先生と廊下でバッタリ会った。先生もその日講座があったのだろう。今、息子が帰省しているので、良かったら喜んで教室に来ますよと言われた。
急遽お願いした。「テディ!」とその場で電話なさり、貴彦さんは十分後には教室に現れた。『マスタード・パイ』の中の、グレーの帽子の男が主人公エドのベーカリーを訪れる場面の英文を、ドスの効いた声色をつかって読み聞かせてくださった。そして、自分は山の田中学に通ったが、授業中も好きな本ばかり読んでいた、マンガを描くのが好きなやつはマンガばかり描いていた。今、東京で一緒に仕事をしている製作集団「エトセトラ」の連中は、みんなその時の仲間で、みんなも好きなことばかりやればいいよと言われた。その時、メールアドレスを書いていただいたが、ものぐさな私は、そのままにしてしまった。
貴彦さんの短すぎる人生を思う時、忸怩たる思いがするが、今回この原稿を書くために、既に購入していた『ビッグ・ファット・キャット』シリーズを未読だった三巻から六巻まで読んでみた。文句なしに面白い英文だ!たかしまてつをさんの挿絵が絶妙で、現場が楽しんで一冊の本を作り上げている熱さが伝わってくる。そして、巻末に惜しげもなくその生きた英語の知識や米国教育事情などが披瀝される。勿体ぶりもせず、自然体で、面白いよ、さあおいで!と言わんばかりに!サービス精神旺盛!淳子先生の遺伝子ですね。ありがとう。貴彦さん。
貴彦さんは、七歳で日本に帰国し、下関の梅光アパートの住人として小学一年生で生野小学校に入学して、ご自身の米国滞在体験は一応そこで終わっているのに、どうしてこんなに英語が分かっているんだろう! 小さい時から、英文の本を読むのが好きで好きでたまらなかったのだ。海外で子を育てる心ある親は、人一倍その子の母国語の形成に神経を用いる。流暢な英語でよく喋べる貴彦さんに向山夫妻は日本人としてのアイデンティティーを持たせるため腐心されたようだ。恐らくこの葛藤が貴彦少年の言語感覚を研ぎ澄まさせたのだと思う。

『ビッグ・ファット・キャット』の主人公パイ職人のエド・ウィッシュボーンは、限りなくお人好しで、次から次へと痛い目にあっても、またおろおろと立ち上がる。その姿に、そして傷つけられても決して他者を傷つけない姿に、『ちゅうちゃん』の主人公の姿が重なるのである。そして、一言付け加えれば、少しもエドになつかず、彼のパイを盗み食いし、獰猛で厚顔なデブ猫の存在が、どこかおかしくて、しかしその破壊的行動が結局エドの窮地を救うことになる人生の妙味!
そして圧巻は完結編の第七巻『ビッグ・ファット・キャットと雪の夜』(Big Fat Cat and the Snow
of the Century)であった。パイコンテストで優勝したエドは、念願のニューモールでのパイショップを手に入れて、めでたしめでたしで終わると私は予期していたのに、貴彦さんはそうはさせない。ある日ニューモール行のバスから、邪険にも猫を払い落としたエドであったが、百年に一度という猛吹雪がその地方を襲ったその夜、デブ猫の姿が見えないのに気づいた彼は、半狂乱になって、危険をも顧みず探し回る。猫がパイを食べ続けてくれたおかげで自分はbaker(焼き菓子職人)でいられたのだと悟る。やっと雪原深く凍死寸前の猫を探し当てた時、彼は初めて猫をわが手に抱いた。
そして、一命を取りとめた猫はまたもしらっとして、パイを催促する。そこには母のブルーベリーパイのレシピでパイ職人になったエドが、ゴーストアベニューの廃墟で出会った仲間たちに支えられて、得も言われぬほど複雑でスパイシーな味のマスタードパイを生み出す成長の過程や、商売仇(ゾンビーパイ)の圧倒的金持ちの御曹司、皮肉屋のジェレミーとの奇妙な友情とか、クリスチャンの私が恥じ入るほど、聖書的メッセージに溢れていて、そしてはたと気づいたのだ。だれの人生にもBFCはいるのではないか。ふりはらってもふりはらっても、自分を困らせる黒く大きな存在。それでもそれを受容し折り合いをつけていく。
こんな宝をこんな財産を梅光の中高生に読ませたら(課外授業ででも)どんなにいいだろう!と思った。
二〇一三年頃であったろうか。ある日大学の事務室に入ると、壁側の机の上に大きくて立派なガラス製のふた付き容器が二つ並べてあって、中に赤いナポリタンのスパゲティが入っていた。おそらくアメリカ製のパーティー用容器に違いなかった。淳子先生は紙皿やフォークを用意して、さあ皆さんどうぞどうぞと勧めておられた。ただその頃には、梅光の今までを知らない事務の人たちが遠くの地から雇われるようになっていて、きょとんとしている人も多くいた。私はお代わりをしていただいた。ハロウィーンの頃だったかもしれない。ホスピタリティに溢れた方であった。
エドの母は言った。「人生はブルーベリーパイのようなもの。ときには酸っぱく、でもおおむね甘い(Life is like a blueberry pie. Sometimes sour, but mostly sweet.)」(パート3 二六頁)。母のパイに養われつつ、それを越えて大きくはばたいたエドのことを思う時、貴彦さんとも重なり、『ちゅうちゃん』は、まさに向山家の家族愛の物語でもあり、「梅光」という学院のホスピタリティにもつながると思った。



参考文献
向山義彦 『ちゅうちゃん』 幻冬舎 二〇一七年
向山淳子・向山貴彦 『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』 幻冬舎 二〇〇一年

向山貴彦・たかしまてつを(絵) 「ビッグ・ファット・キャットシリーズ」
パート1『ビッグ・ファット・キャットとマスタード・パイ』 (Big Fat Cat and the Mustard Pie) 幻冬舎 二〇〇二年
パート2『ビッグ・ファット・キャット、街へ行く』 (Big Fat Cat Goes to Town) 幻冬舎 二〇〇三年
パート3『ビッグ・ファット・キャットとゴースト・アベニュー』 (Big Fat Cat and the Ghost Avenue) 幻冬舎 二〇〇三年
パート4『ビッグ・ファット・キャットとマジック・パイ・ショップ』 (Big Fat Cat and the Magic Pie Shop) 幻冬舎 二〇〇三年
パート5『ビッグ・ファット・キャットVSミスター・ジョーンズ』 (Big Fat Cat VS. Mr.Jones) 幻冬舎 二〇〇四年
パート6『ビッグ・ファット・キャットとフォーチュン・クッキー』 (Big Fat Cat and the Fortune Cookie) 幻冬舎 二〇〇四年
パート7『ビッグ・ファット・キャットと雪の夜』 (Big Fat Cat and the Snou of the Century) 幻冬舎 二〇〇四年

連載:梅花くすしく 第18回

2022.1.25

いざ、アメリカへ・・・淳子さんとの出会い

結核にかかった義彦さんは、療養所に入院し徹底的な療養に励む。退院した時には、昭和二八年、もう三二歳になっていた。彼はその後、体力のことも考え、慶應の通信教育部の事務員となる。
ある日、義彦さんは大講義室で、浮世絵の収集家として名高い教授の講義中に、浮世絵をかざして、学生たちに見せて回るという仕事を受け持った。次から次へと示される浮世絵を、先生の説明時間内に大講義室を巡るというのは結核を患った身体にはきつかった。すると、「あの、お手伝いしましょうか」と一人の女子学生が心配そうにこちらを見上げている。それがのちに妻となる淳子先生との出会いだ。英文科の新入生「鈴木淳子」さん。「温厚な見目の中にも、正義感の強そうな面持ちが垣間見えた」(一五七頁)とある。
ここを読んで、そうなんだ、それが淳子先生なんだ!と私の心の声が叫ぶ!どこまでも、人がよくて一生懸命になって下さる方。



そうこうするうち、義彦さんの病状は恢復してきて、気力体力も充実してくる。フルブライトという留学制度も視野に入ってくる。いつの間にか彼の心に湧いてきた野望は「アメリカの大学院で英文学の博士号を取ろう!」であった。しかし、それはあまりに無謀なことだった。アメリカ大使館で働く元フルブライト事務局員のミセス・スズキは言う。「それはとても無謀なことよ。アメリカ人の学生は、小学校や中学校のうちから大学に向けて準備しているの。それでも大学の四年間でほとんどの人が振るい落とされるし、仮に大学院に行っても、修士課程の成績が上位でなければ、博士課程に進むことはできないわ」・・・「博士号を取れるのは、そこからさらに選ばれた数人だけ。アメリカ人の学生でも何年もかかるし、生涯取れない人もいるのよ。」(一七八頁)
それでも、義彦さんはそれを貫こうとする。手持ちの円をドルに換える、そしてそれを米国の口座に持つ。一つ一つハードルを越えなければならなかったが、ドルに換金するところで、また広津先生の名前が出てくるのである。アメリカの学会誌に日本の新しい研究発表を英訳して送り、ドルで報酬を受け取っている人を紹介され、そのドルを自分の円に換金してほしいと頼みに訪ねて行くのだが、その人がその日、たまたま下関の梅光女学院の同窓会東京支部の総会に上京された広津信二郎先生に会ってきたばかりだというのである。おかげで、義彦さんは信用され、ドル換金の目的を果たす。
次に、留学先をどこにするかという問題があった。オハイオ州立大学をはじめ、二十校に願書を出した。授業料免除に加えて奨学金が貰えるところ。そしてついに昭和三三年三五歳にして、ベイラ―大学グーチ博士より、入学許可と奨学金授与との知らせを受けたのであった。彼は心の中で雄叫びを挙げながら、「パーコレーターやボブスレーのある国は、もうすぐそこだ」(一八五頁)と思う。
その後、フルブライトの最終試験や身体検査をクリアして、米国行きのチケットを受け取る。出発の日は九月一二日。三六歳の誕生日を迎える、わずか十二日前であった。


勉学の凄まじさと結婚


アメリカの大学は、入るよりも出る方が難しいとは聞いていた。また、ドクターを取ることについても、どれほど難しいかということは、私も耳にしていた。ある時、梅光アパートに住む優秀だと定評のある米人青年教師がドクターに挑戦するため、帰米された。よく決心されたよね、七年はかかるんだってよ!そんなことを耳にした。結局後になって、その方は途中であきらめたということが伝わってきた。



フルブライトの留学期間は三年間、その間に修士号と博士号を取得できるはずがなかった。修士課程でAをそろえないと、博士課程へ進むことは認められない。そして、どの科目においてもAを取ることは至難の業なのだ。一科目において、課題図書はほぼ一五冊。どれも分厚い。それらに精通していなければ答案は書けない。気が遠くなるような話である。
本書の中に、義彦さんの修士での最初の一科目の試験問題が記されている。「マーク・トウェインは作品において、印象を強く与えるために『これが初めてだった』という表現を用いることがある。この例を三つ挙げよ」(二四二頁)と言うものである。のけぞってしまった。この答案を書くためには、マーク・トウェインの全作品に精通し、なおかつ批評的な読み方をしていなければならない。そんな気が遠くなるような準備をつまり勉強をしなければ、とても答案を書くことなどできない。実際、義彦さんと寮で同室であったアメリカ人の友達は、最初の期末試験の後で、進路変更をすると言って学校を去るのである。
血の滲むような努力の甲斐あって、義彦さんは三年の留学期間の最後の一年に博士課程に進むことを認められる。成績は十分にAを揃えられたわけではなかったが、彼の伸びしろを信じ、認められたのであった。もちろん後の一年で博士課程を終えることは不可能である。それでも少しでも、後を楽にしてやろうという教授陣の心を動かすものが義彦さんにはあったのであろう。

・・・私は睡眠時間を削り、毎日アームストロング・ブラウニング・ライブラリーを訪れて、閉館時間まで研究書を読んだ。勉強に疲れてくると、散歩代わりに奥の豪華なホールへ足を向けた。その場所は「瞑想の間」というのだと、あとで聞いて知った。・・・
ある日、図書館から引き上げる際、入り口の所でグード博士と鉢合わせになった。グード博士は両手に本を抱えた私を見ると、重たいブロンズ製の図書館の扉を開けて、にっこり笑いながら言った。
「今日はこれで店じまいかな?(Calling it a day, ha? )」
気軽な一言が、私にはとても嬉しかった。学問の道を行く厳しさと、人間的な優しさを同時に垣間見た気がした。(二六四頁)

このライブラリーの「瞑想の間」は後に義彦さんの人生にとって、忘れられない場になるのだが、問題はフルブライトが後三年の留学を認めてくれるかどうかにかかっていた。手紙を書いて頼みこんだ。返事がやがて帰ってきた。「期間は三年と決まっているので、一旦は帰国してもらわねばならない」「だが、大学から学費と生活費の援助支給が保証されていれば、帰国後三ヶ月以内に帰米する条件で、再留学が可能になる」(二六九頁)。その朗報はむしろ悲報に近かった。すでに授業料免除の恩典まで受けているのに、どうして生活費まで援助されるはずがあろうか。肩を落として歩く義彦さんにオスカーという同級生がどうしたのかと声をかける。その結果、驚くべきことが起こったのだ。その翌日、ロング博士のオフィスに呼び出された義彦さんは、博士の口から、授業料免除と共に、生活費として、月額百ドルを受け取れることになったと告げられる。夢見心地で呆然とキャンパスを歩く義彦さんはオスカーに会って、本当に本当にありがとうと礼を言う。
すると彼は言うのだ!今度は彼女を連れてこいよ!と。

金魚が取り持つ縁そして康彰君の変貌


実は、サンフランシスコにいる義彦さんの親戚の知り合い藤内さんから、日本の金魚をアメリカで育てて売りたいという話を聞く。そこで思い出したのが、あの浮世絵の時に親切を示してくれた女子学生が金魚で有名な町、奈良の大和市出身であるということだった。彼女は今卒論だけを残して、故郷の町に帰っていると分かった。義彦さんは手紙を書く。すると、向山さんが九月に帰米なさるまでにはそのご依頼の金魚を必ず間に合わせます、という頼もしい返事が返ってきた。一方で、義彦さんは康彰君の家を訪ねて愕然とする。様子がおかしい。妹の文江は夜な夜な歌声喫茶に出かけていく。康彰君は中三になり、懐かしさに駆け寄る義彦さんに対して、どこか無気力で覇気がない。



うろたえる義彦さんは散歩に誘う。そして、最愛の甥の口から聞いた言葉は、「ちゅうちゃんは、人生に生きる意味があると思う?」(二九二頁)という凍りつくような言葉だった。そして、その遠因は遠い昔に、自分が文江を津田塾大学のホームカミングデーに誘ったことがあり、その経験のインパクトを文江が康彰のPTAで口にしたことから、母親は津田塾出の才媛、父親は東大出の大蔵官僚というレッテルを周囲から張られ、今更違いますとも言えず、いつしか康彰君は偏差値で縛られる存在となっていったのだ。このことが、どんな悲劇を生み出すことになるか、実は、この自伝風小説は、最初と最後に康彰君の悲劇を配するのである。

さて、同時進行で、義彦さんのロマンスは進む。七月、淳子さん、つまりあっちゃんは金魚のカタログを持って上京してくれた。二人で食事をしたレストランで、コップの水をこぼした時、「言葉も、なんの合図もなく、瞬時に意思が通じ合う。そんな感覚は生まれて初めてだった」(三〇〇頁)と義彦さんは感じたのである。文通を続けた二人は、ついに八月三一日の午後六時に慶應の図書館で待ち合わせ、東京文化会館でフライドチキンを注文し、「結婚してくれませんか」という義彦さんの担当直入なプロポーズに、「はい、分かりました」とあっちゃんは答えるのである。「有り難くお受けしたいと思います」「では、家に帰って母や兄姉弟に伝えますので」(三〇八頁)と即帰り支度をする。これほど潔い女性がいるだろうか。

連載:梅花くすしく 第17回

2021.12.17

2 向山義彦著『ちゅうちゃん』を読んで

安冨 惠子

二〇一八年の春だったと思う。教会で、平良美代さんが、「この向山先生の本、面白いよ」と貸してくださった。それにしても『ちゅうちゃん』とは不思議なタイトルだなと思いつつ、読み始めたのであった。向山義彦先生は、お名前こそ存じ上げているが雲の上の人のような存在で、奥様である淳子先生とは違って、馴染みのなかった方である。
ただ、慶應を出られてフルブライトで留学された方と聞いていたので、そしてまた、「東京に家があります」と淳子先生から何度も聞かされていたので、さぞかしお金持ちのお坊ちゃまなのだろうと思っていた。ところが、山梨の片田舎の出身で、小学校に上がる前に家は傾き、何とか甲府商業に入学するも学費が続かず、東京の親戚を頼って工場で働きながら、そこでいじめられては腸チフスにかかり、一六歳で帰郷。



しかし夜間中学に通う可能性のある東京神田橋税務署勤務を母上が探してこられ再び上京、とその人生の初めから試練の連続であったことが分かり、本当にびっくりした。そして「読み物」として、ぐいぐいひきこまれた。もちろんあくまで自伝風小説であるが、実在の義彦先生や淳子先生、息子の貴彦さんのことが新たな光を帯びて私に迫ってきた。やはり、人は、語ってもらわなければ分からないものだな、という思い。そして、「勉強する」ということの重さと意味。思わず、四、五冊大学生協を通して夫に購入してもらい、知り合いの現役梅光中高生に贈った。「こんなに勉強した人がいるんだよ」という思い。今、彼らを励ましたかった。そして、この本のことを皆さんに紹介したいという思いが強く湧いてきた。そのためには、多少長くなるが、本の中身を辿らせていただきたい。
さて、再上京した著者義彦さんは、野方学園東亜商業学校へ編入、優等賞で卒業後、明治学院商業部第二部(夜間)に入学が決まるが、脚気と乾性肋膜炎にかかり、また甲府に帰郷。二年たったころ、いよいよ学徒出陣の赤紙(召集令状)が届く。昭和二〇年六月一日入隊。結局八月一五日の玉音放送まで二か月余りの軍隊生活を経験することになる。


苦学を支えたアメリカへの憧れ!


義彦少年が小学生であったころ、移民としてアメリカに渡り成功して帰国した伯父の家を訪問することがあった。そこにはソファーやテーブルといった見たことのないアメリカの家具が並んでいて窓も大きい。風通しもよく明るかった。
「電灯のせいかと思ったが、そうではなかった。我が家にはない、気楽で明るい雰囲気がそこにあった」(『ちゅうちゃん』二〇頁) 。やがて甲府商業に入ったころには『タイム』や『ニューズウィーク』の雑誌を伯父さんからもらい、そこにある「パーコレーター」の広告や「ボブスレー」の写真の世界に、現実を突き破る可能性を感じ、彼はアメリカへ行きたいという願望を膨らませ、独学で辞書を引きひき英語を学んでいったのである。
さて義彦さんは、終戦後、妹文江さんの嫁ぎ先である小平に、家族で甲府から移り住むことになった。そしてそこで旧陸軍経理学校の便所の人糞を肥料として利用し農家に提供するという当時ならではの画期的な方法を思いつき、その交渉を進駐軍に対して行うという才覚を発揮し、また自らも三〇〇〇坪の農地を借り入れ開墾するのである。同時に勉学への志捨てがたく、休学中の明治学院に復学する。ここで齋藤茂夫という英語の先生から、ロバート・ブラウニングの詩を教えられ、米国ベイラー大学の「アームストロング・ブラウニング・ライブラリー」の存在を知るのである。そして、そのR・ブラウニングが義彦さんの終生の研究テーマとなる。また、この頃の明治学院で、「その一方で、国文学の授業も熱心に受けた。こちらは広津信二郎先生という人が受け持っていて、万葉集や源氏物語の講義が専門だった。分厚い眼鏡をかけた、生真面目な印象の先生で、生徒からは多少怖い面持ちに見えていた」(七八頁)と、我らが広津信二郎先生との出会いがあったことが分かる。戦前から戦後へのこの時期には、学制がまだ新制として確立していなかったのであろう、明治学院を三年で終えた後、なおかつ大学を目指したようで、「当時の大学は三年間かけて専門科目を学ぶ、現在の大学院のようなもので」(八六頁)、向学心やみがたい義彦さんは、ついに慶應義塾大学に入学することになるのである。大学生になった彼は、ここで、英文科の看板教授西脇順三郎先生に出会う。奨学資金を受けていた彼は、またその頃、別のつてで、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)へのアルバイトに導かれる。「スマイリー」というニックネームで呼ばれ、夏休みの間だけだと思っていたバイトは、秋に授業が始まっても、並行してできるように取り計らってもらえた。そして、幼い日のかつての夢「絶対にアメリカに行く」は深く強く心の中で再確認された。

もう一つの通奏低音ー人生の愛と悲しみ


実は、この物語の最初から最後まで、一つの通奏低音が流れている。それは著者の甥、つまり妹文江さんの息子康彰さんへの思いである。またもう一つは父親の影である。幼い日アメリカの底抜けの明るさに惹かれた陰には、自分の家で父親の醸し出す独特の憂いがあった。経済的に傾いた生家で、お坊ちゃま育ちの父親はそれを立て直す力量も気力もない。親戚の世話で東京に単身赴任で働きに出ても、「重度のホームシック」にかかり、挫折して帰ってくることになった父親。

(父の)帰宅の日は、私と兄が駅まで迎えに行った・・・。 駅に着くと、ちょうど電車がホームに入ってくるところだった。降車客の中に父の姿が見えたが、兄は口をつぐんだままだった。それで、私が代わりに言った。
「お帰りなさい」
父は疲れた様子で、ちらりとこちらを見た。しかし、何も言わなかった。代わりに父は兄の手を取り、二人で連れ立って歩き出した。私も急いでそのあとを追った。わけが分からなかった。そして、それ以上に寂しさを覚えた。
❘なぜ?
思えば、私が胸の内に漠然とした寂しさを抱えるようになったのは、この頃からだった。 (一五頁)

だから余計に小学校教員を経験していた母親は進歩的で気が強くなり、息子の向学心を何とかかなえたいと寄り添う。家族の中のそのジレンマがまた義彦を寂しくさせるのだった。 妹の息子、甥の康彰君の誕生は、戦後の戌年昭和二一年九月二四日。自分と同じ干支、同じ誕生日を持つ甥っ子の誕生に義彦さんは喜びを爆発させる。

生まれてきた子は「康彰」と名づけられた。・・・この子こそ、新生日本の子として、健やかに、幸せいっぱいに育っていくだろう。そう思うと、私は赤ん坊の康彰が可愛いくて仕方なかった。その頬に何度も「ちゅう」をするほどの可愛がりようだった。
「兄さん、汚いからチューなんかしないでよ」
母である文江に度々そう注意されたが、構わなかった。それほど、私はこの康彰を愛した。その輝かしい未来に、自分がなり得なかった自分、中学二年生の教室にいる自分が見えるような気がした。
やがて言葉が話せるようになった康彰は、私のことをこう呼んだ。
「ちゅうちゃん」
その呼び方が家族全員に定着して、以来私はずっとそう呼ばれ続けた。それはさながら、幼い康彰が私にくれたプレゼントのようであった。(八一頁)



義彦さんの康彰君への思いとは裏腹にうだつの上がらない父親への苛立ちが、スイカ苗事件として語られる。ある日義彦は、自分たちの農地に父親がスイカの苗を十本ばかり植えている姿に遭遇する。そして、そんな水分ばかりで腹の足しにならないものを植えるな、かぼちゃを植えるんだと、その苗を蹴散らせてしまう。
そんな中、昭和二六年元旦、康彰君と父を結びつける事件が起こる。夕暮れ時、四歳半の康彰君失踪事件である。突然姿が見えなくなった甥の康彰君を探して義彦さんは蒼ざめ、真冬の武蔵野を駆け巡る。あちこち心あたりを探した後、最後に正月祝に来なかった父の住む家を訪ね、そこでおじいちゃんにおもちゃを見せに来た康彰君に遭遇する。 そうこうするうち、義彦さん
自身に身体の限界が忍び込んで来た。結核である。戦前戦後の無理に無理を重ねた身体は限界に達しており、慶應卒業を目前にして、「西日本重工業」の下関造船所に就職が内定していたにも関わらず、病気のため採用取り消しとなる。もちろん、GHQのバイトも限界であった。実は、この下関造船所のくだりで、またまた我らが広津先生の名が出てくる。「先日、明治学院の広津先生から届いたハガキに、『下関の梅光女学院という学校に移った』と書いてあった。なんでも、広津先生の結婚相手がそこの院長の娘さんで、跡を継ぐために移り住んだ、ということだった。」(一二〇頁)

そんな中、父の訃報に接する。「私は束の間、病に伏したわが身を忘れて、父のことを思った。なぜあの時、あんなに邪険にスイカの苗を叩き潰したのだろう。腎臓がわるかったのなら、甘くて水分のあるスイカを食べたいのは当然だった。どうしてそんなことも分からなかったのだろう。」そしてこう述懐する。「アルバイトも、農業も、就職先も、すべてが失われた。残ったのは病気の体と、心の中の小さな『羽』だけだった。」(一三三頁)

「羽」とは、アメリカへ行ってみたいという飛び立つような願望のことである。

連載:梅花くすしく 第16回

2021.12.17

第三章 梅光ファミリーの思い出

❘下関・幡生文教台に住まいして❘

安冨 惠子

1 文教台と渡辺憲司先生のこと 安冨惠子

一九八六年四月、私の夫安冨俊雄は梅光女学院に赴任した。折から梅ヶ峠キャンパスでは高層の図書館新館が完成しようとしていた。それは梅光女学院の躍進のシンボルのようであった。面映ゆい思いでその建物を見上げながら、工事現場のぬかるみの中、本を運ぶのを手伝った。夫は、大学に「地域文化研究所」があるのに興味を示していた。着任後すぐにその所員である渡辺憲司先生の知遇を得、自らも所員にしていただいた。渡辺先生は豪放磊落にして、繊細緻密、人の心の襞まで解する方で、何より、先生のユーモアあふれる語り口は魅力的で、多くの人を引きつけていた。



一年後私たちは渡辺先生と同じ団地内の空き区画に家を建てることになった。
それが文教台である。文教台は東駅の梅光短大から近く、下関商業高校の裏階段に面して、梅光の教員宿舎である「梅光アパート」からひな壇のように上る住宅地である。昭和五〇年代から山陽チップ工業によって開発された。渡辺先生ご夫妻は、梅光アパートで何年か過ごされてから、文教台に家を建てられていた。ご夫妻は子供会や少年野球やPTAなどで、既に非常に信頼を得た存在であられたので、「梅光ファミリー」の一員として、私達家族はすんなり地域に受け入れられたのを感じた。このことはいくら感謝しても感謝しつくせない。まだ我が家が完成しない借家住まいの時だったと思うが、ある夜、大学でのある催しの後、先生方が渡辺邸に集まっておられて、私は車で夫を迎えに行ったことがあった。ちょうど楽しい会がお開きになるところで、笑いさんざめく座の余韻の中で、皆様に紹介された覚えがある。そこには、日文も英文も一般教養も共に大勢の先生方がおられ、みんな仲良しのようであった。その時の鮮やかな印象を忘れることができない。夫は良いところに導かれた!ここにはサロンがある。そう思った。
夫はよく言う。渡辺先生は帰り道「ちょっと軽くやって行こう」と言われたんだよ、また何かの催しの後にはいつも「な(・)おら(・・)い(・)をしよう」って言うのが口癖だったよ。実に楽しげだった!民間から研究職に就いた夫は、水を得た魚のようで、渡辺先生を慕っていた。渡辺先生のお宅の筋向いには、中野新治先生のお宅があった。このお宅も渡辺家を慕って、居を構えられた風であった。のちには森田兼吉先生のご一家も、渡辺家の奥に家を建てられた。何か人を引きつけるものがあったのだろう。「梅光アパート」はA棟とB棟から成り、主に前面のA棟には外国人の先生たちが暮らされ、奥のB棟には日本人のご家族が住まわれていた。今井夏彦先生も、森田兼吉先生ももともとこちらの住人であった。吉岡正宏先生もそうだし、もっと以前には、武原弘先生や向山義彦・淳子先生ご夫妻もこちらの住人であったそうである。後年、向山淳子先生は、あなたの家のあった辺りは竹やぶで、タケノコを掘りに行ったものよと言われたし、またある時、これから森田先生の章子ちゃんを訪ねる、と仰るので怪訝に思っていると、梅光アパートでご一緒だったと言われて、ああそうだったのかと納得したりした。
私たちはこのA棟とB棟の間の空間で、毎週木曜日であったか、生協の共同購入の分配をしていた。近所の方々も加わって、ワイワイガヤガヤ賑やかでさぞかしご迷惑なことであったろうと思うけれど、渡辺夫人、中野夫人、今井夫人を中心に楽しかった。



佐藤泰正学長のお宅は、文教台の坂を上がって右への三本目の道を折れて進むと右手にあった。


そして、だれもいなくなった!

今、二〇二〇年春、佐藤邸は前年九月にとりこわされて更地になっており、梅光アパートも取り壊されて売り出し中である。森田邸も渡辺邸もとっくに別の方々が住まわれており、中野邸に中野夫妻は暮らされてはいない。残っているのはわが家のみである。
渡辺憲司先生は、一九八八年四月立教大学に移られた。夫がご一緒したのはわずか二年間だけだったのだろうか! あまりにインパクトが強くて、たった二年間とはとうてい思えない。
先生から、立教に移ると、お乗せしていた帰りの車の中で告げられたとき、夫はショックのあまり「このまま海に突っ込もうか!」と言ったと言う。中野先生は、渡辺先生がおられなくなると、日文も大学全体も随分雰囲気が変わってくると思います、と顔を曇らせられた。その通りになった。もし渡辺先生があのまま梅光にいてくださったなら、とよくこの頃思う。先生のような突き抜けた大人が必要であったのだ。
権藤さんの「活字の中の梅光」の原稿を読ませていただいて、一番初めに私がしたことは、渡辺先生の著書、『時に海を見よ』を再読・熟読することであった。何故「海」なのかな?と思い、忠霊塔から見晴かす海を思った。海の上には必ず広大な空間があり、天まで続くこの保証された空間こそが人を引きつけ、圧倒し、リセットさせるものなのかと思った。先生は「天空海闊」(『時に海を見よ』双葉文庫一〇〇頁)という言葉を用いておられる。



一番感動したのは、東京の進学校で担任をしておられた時の体験である。 熱があるからやめてくれと本人が言うのに、生徒たちはある体育教師を年度末恒例のいわゆるお礼参りのノリで、プールにほおり込むということをしてしまった。そのクラスの全員を、先生が一人ずつ「ぶんなぐる」シーンである。人にはしていいことと悪いことがある、どうしても許せないと一人ずつぶんなぐる。一人ずつ打ったその手の感触を先生は今でも覚えている、と言われる(一六二~一六四頁)。この箇所は読むたび目頭が熱くなる。もちろん暴力はいけない。分かっている。それでも、その痛みを持って身体に覚えさせないではいられないことがある。悪に対しての憤怒を忘れてはいけない。不思議なことにその時の生徒たちこそ、いつまでも先生を慕っているようだ。「叱る」にはエネルギーを要す。しかし、教師は叱る事を忘れてはならない。
この著書の中で、二度出てくる聖書の言葉に注目したい。「真理はあなたたちを自由にする」というヨハネによる福音書八章三二節のみ言葉である(一四頁)。



もう一箇所は、「真理がわれらを自由にする」で、目的語が裏返しになっているだけで、これも出典はヨハネと同じであろうが、国会図書館の出納カウンターの上に掲げられているという(八八頁)。これこそ、ミッション・スクールの一番大切な根拠ではないだろうか。真理に立つ故に、真理追及の学問をする故に、自由に立たせていただく。身分の上下関係で縛るのではなく、学問の場で共に研鑚し、サロンを持つ。渡辺先生がおられたころの梅光にはそれがあった、と思う。



参考文献
渡辺憲司 『時に海を見よ』 双葉文庫 二〇一三年七月

連載:梅花くすしく 第15回

2021.12.03

『梅光女学院遠望 戦後編』を読んで

安冨惠子(元短大非常勤講師)

一気に読ませて頂いた。読みながら「私の梅光、私の梅ケ峠」が沸々とたぎった。第一章で特に印象的であったのは、終戦直後、「福田院長の陣頭指揮のもと全職員生徒で」(一八頁)バラック資材を運んだり、丸山校舎へ「職員生徒は机椅子を抱えて三十分の道のりを」(二一頁)運び入れたりする、総動員の学校再建の記述であった。この全学一体の汗が戦後の梅光復興の原点になっている。また福田八十楠先生と広津信二郎先生が血縁の叔父と甥であったと分かったことは収穫だった。また何故信二郎先生が内村鑑三に会っておられるのかという謎も解けた。
第二章の「私の梅光」では迸る文体に圧倒された。誰もが申し合わせたかのように、日毎の礼拝に象徴されるキリスト教教育への熱い思いを語る。「思春期をどこでどう過ごすかは、案外大切なことではないだろうか・・・愛された人間はおそらくその愛を誰かに伝えたくて仕方がないのである」(二三一頁)という言葉が心にひびいた。
短大、大学、大学院の項では私自身、身を乗り出さずにはいられない。
あの新図書館が竣工した年の春、私の夫は梅光に赴任した。建設中の新図書館は眩しかった。その年の春から、私は大学院の聴講を開始し、秋には短大の非常勤講師の職も授かった。このご恩は決して忘れない。吉津成久先生の授業でジョイスの『ダブリナーズ』を読んだ冬、あの院生用の小部屋がダブリンの街角に変わり、謹厳紳士、酔漢、伊達男、老淑女達が跋扈した。不思議な体験だった。だから東駅や梅ケ峠で学んだ人たちの文章が、深い実存で迫ってくる。誰もが師の恩を語る。佐藤先生はよく〈上より垂直に問われる魂〉について語られる。梅光には教師も学生も共に、上より問われる存在であるという認識がしみこんでいるのではないか。 この認識は却って教師をゆるめ、自由にし、屈託なく学生に向かわせる。この雰囲気の中で、どれほどの知の研鑽がなされたことだろう。そしてついに彼の地で学び教えた人すべての「梅ケ峠追憶」(三三二頁)が天に立ちのぼる。あるいは「梅ケ峠慟哭」か。
戦後のベビーブーム、教育ブームの中で躍進しつづけ、やがて少子化の中で苦悩する梅光。苦しみや苦悩にも意味があり、試練の中にも一筋の光明が輝いていることを信じる。何故なら、今の時代ほど〈一人一人を大切にする愛の教育〉が必要な時代はないと思うから。
梅ケ峠でクリスマスや記念会を催し、コール梅光で盛り上げ『遠望戦後編』を上梓する同窓会の姿に、子を思い何かせずにはおれない母親の姿を重ねる。そしてこの町に住む一キリスト者として、梅光に心からお礼を申し上げたい。梅光のおかげで、この町のキリスト者はどれ程信用されてきたことか。

❘『梅光』三七号 二〇〇五年❘

3 『梅光』誌、『梅光女学院遠望 戦後編』より

同窓会誌『梅光』は、学院の現状、行事や人事の記録、先生方や同窓生によるエッセーなどその折々の貴重な資料で、いつ読み返しても興味深い。中でも是非同窓生の方にお伝えしたいもの、独断ながら三点に絞ってご紹介したい。

〇丸山校舎定礎式

一つは「空襲で焼け落ちた丸山校舎が再建されることになったいきさつ」、特に定礎式のセレモニーは他に類をみないものと思われる。体験された方の証言を心に留めたい。

定礎式を回顧して

元院長 V・M・マッケンジー

❘前略❘
新しく建築する場合はいわゆる鍬入れ式のような式をもって始めます。建物に関係の深い人々が集まって、やがてたつ建物の土台にあたる所の土を、リボンをつけたシャベルで少しずつ掘り起こします。こうして皆が建築工事に実際は参加したという感じを深めるわけであります。
❘中略❘
去る二月十六日の定礎式に参列した方々は、どうかあの美しい式典の思い出をいつまでも忘れないでいただきたいものと思います。
あの日は幸い穏やかな静かな日でした。以前本館のあったあの表玄関が、今度新しく出来る本館の再び中心となるわけですが、その玄関へ上がる石段が昔のままに今なお残っています。この石段の下に、当日来賓や多くの参列者が集まっている所へ、山の上に並んだ生徒のうたう讃美歌の声が実にハッキリと聞こえて来ました。「神はわがやぐら……」。あの美しい歌声は神のみ約束を思い出させてくれました。広津信二郎先生の挨拶は一語一語ハッキリと響きわたり、私どもの建てられている信仰の土台の力強さをしみじみと感じさせられました。 ❘後略❘
❘『梅光女学院遠望 戦後編』 四頁❘

復興の校舎 献堂式

(高3)桐原浪子

また、定礎式のあった寒い日(二月十六日と写真の裏の日付けにあります)のことを。私達だけが味わった後にも先にもない出来事だったからです。
石段を登りつめた所の校舎の正面玄関の柱に「定礎」と今でも書いてあります。式で先生のお話が終わった後、鉄骨を組んで木でかこってある柱となる所へ院長が初め祈られて小さなシャベルにひとすくいコンクリートを柱に入れ込みました。順々と続いて私達も一人一人祈りの心を持ってシャベルでコンクリートをひとすくいずつ入れ込みました。この日の事を黒木先生が一人一人写真におさめて下さり後でいただき、自分の姿をそれぞれが持っているはずです。本当に寒い日のことでした。この建物は私達一人一人が「参加して建てたということと、梅光で学んだこと、生徒であったことを後で忘れないでほしい」と無言の信二郎先生の教えだったと信じています。
❘『梅光女学院遠望 戦後編』 七四~七五頁❘




○ステンドグラスの巡りあい

青の恩寵の中に

(中3)福田雅子

ドイツに東西を隔てる壁が厳然と存在していた一九八〇年代初頭、私は壁の向うの東ベルリンで暮らしていた。週に一度はチェックポイントチャーリーの検問所を通って西ベルリンに買出しに行く生活であった。西ベルリンに行った際、買物し、街を彷徨して疲れると、私には休息する場所があった。
それが、カイザー・ヴィルヘルム記念教会に隣接して建つ新教会である。周知のように、本教会は第二次世界大戦の爆撃で破壊され、毀れたままの形骸を今に晒し、丁度広島の原爆ドームのように、戦争の惨禍を伝えるモニュメントとして黒々と屹立している。
新記念教会の方は、一九六三年に完成し、青いステンドグラスの教会として名高い。
教会内部はまさに青の世界である。濃蜜な青。ラピス・ラズリの青色。黒い鋼鉄の枡形の枠に嵌めこまれた数万の青いガラスは、更に二重構造になっていて、その間に赤や金色のガラスの破片が鏤めこまれ、美しい光のスペクトルを醸し出す。ここは深海から蒼空へと続く宇宙なのだ。私は一度青い海の底に沈み、少しずつ上昇してゆく。青い世界の中空に両手を拡げた、黄金に輝く基督像が待っている。何という豊かな蘇生の場であったことか。 しかしその頃、不覚にもこの神秘的なステンドグラスの製作者の名を知らなかった。
先ごろ『梅光女学院遠望 戦後編』を披見して、フランスのガブリエル・ロワール氏の作品と教えられた。奇しくも梅光のマッケンジーホールなどのステンドグラスを手がけた人であったのだ。
昨秋、久々に新記念教会を訪ねた。以前していたように会堂の椅子に座し、暫し青の恩寵の中に浸った。懐かしい、温かい思いに満たされた。
ベルリンにあって、此処にも梅光の宿りがあった。
❘『梅光』三七号 二〇〇五年❘

『梅光』に掲載されたこの一文は忘れられない。異国にあって心の糧として親しまれたステンドグラスが梅光のものと同一製作者の手によるものであったことの偶然・・・そのことを深く受けとめられた筆者の感動が伝わってくる。
同じ製作者による作品が、日本では箱根の彫刻の森美術館で美しい輝きを放っている。世界的な評価を受けた方の手によるものを身近に見ることができる幸せに感謝したい。

かつて梅光女学院大学(梅ケ峠)マッケンジーホールにあったものは、現在、丸山キャンパス・山田宏記念ホールに掲げられている。
数年前、大先輩の詠まれた短歌が思い出された。
師と並びステンドグラスを仰ぎ見つ 礼拝堂の静寂(しじま)のなかに




○「コール梅光」は歌う

最後に「コール梅光」について。
コール梅光は卒業生によるコーラスグループである。二〇〇四年、梅光女学院短大の廃止にともない梅光学院大学のキャンパスは梅ケ峠から東駅に移行した。梅ケ峠キャンパスへの名残りを惜しんで、二〇〇二年のクリスマスにハレルヤコーラスを歌う会を有志が立ち上げ、澄川孝子・田村優子両先生のご指導のもと美しいハーモニーを響かせたのが始まりで、以後東駅のスタージェスホールで練習を重ね、同窓会総会やメモリアルデー、クリスマスと定期的に演奏活動を続けている。
会員同士が歌詞を持ち寄り、つないで作り上げた「コール梅光の歌・光の子らしく」は音楽科の卒業生、穴見めぐみさん(高五一音)の作曲を得て、歌い継がれてきた。タイトル「光の子らしく」はスクールモットーです。歌声よ、いつまでも・・・と願うところである。

「光の子らしく」の作曲にあたって

(高五一音)穴見めぐみ

今回、この「光の子らしく」を作曲させて頂く事になって、初めて詩を拝見した時に「この詩は音を運んでくれている・・・」そう強く感じ取りました。私は詩の訴えてくる世界に音をつけるだけの作業。それほどまでに、この詩には美しい世界がありました。
あっという間に詩の情景が頭の中を駆け巡り、私の作曲作業は何とも楽しく、また充実した時間になりました。
梅光へ対するみなさんの想いを受けて作曲をさせて頂けたことに非常に感激しています。作品は、作曲者が終止線を引いた瞬間から作曲者の手を離れます。
コール梅光の皆さんが、この作品を私から受け取ってくださり、どのように感じ歌って頂けるのか、今から非常に楽しみにしております。
❘『梅光』三九号 二〇〇七年❘

光の子らしく

光の子らしく歩みなさい Ut filii lucis ambulate


 光の子らしく 歩みなさい と
 学びし校舎 巣立ち行き
 あれから何年 たったのかしら
 再び集う 梅ケ峠
 心は今も 乙女のままに
 コール梅光 みんなのよろこび


 連翹の花咲く 山の上
 共に育った 私たち
 あれから何年 たったのかしら
 ローソク掲げて ハレルヤを
 歌ったあのとき 今ここに
 コール梅光 わたしのしあわせ


 ステンドグラスの 光の中に
 のどけき歌声 はれやかに
 これから先も かがやきながら
 チャペルにひびく ハーモニー
 友情の輪は 世代をこえて
 梅光ファミリー あすへの祈り





連載:梅花くすしく 第14回

2021.11.09

第二章 梅光精神(スピリット)よ 永久(とわ)に!

❘恵みの記憶❘

権藤市津代編

1 永久(とわ)の感謝 権藤市津代

第二章では『遠望』、『梅光』を中心に、卒業生にとっての「梅光」をとりあげたいと思います。
『梅光女学院遠望 戦後編』の発行に際してよせられた原稿を読ませていただいた折、心うたれることがありました。
綴られた「学生時代の思い出」はひとりひとりが大切にされているものでまさに千差万別。読みごたえがあります。
ところが「結び」の箇所になると、多くの方が「学院・院長・諸先生方」への感謝でしめくくっておられました。
私学ならでは、それも梅光ならではのことと思いました。先輩から後輩に受け継がれる「心の宝物」・・・やや感傷オーバーと自覚しながらも、英語で表されていれば受け入れ易いのでは・・・などとこれも独りよがりでS・Ebiiさんとお友達のお力をお借りしました。

Eternally Grateful
We always feel that we are loved by our great teachers of BAIKO
So we are sincerely appreciate for what our teachers gave to us
Yes! Every single moment was so brilliant That’s why I would be grateful
If you could keep on talking about this
then it will be a legend forever.
(S.Ebii)

永久(とわ)の感謝
私達はいつも梅光の恩師の方々に愛されていると感じています。
先生方が私達に下さった愛情に心から感謝しています。
そうです! 梅光で過ごした一瞬一瞬はとても輝かしいものでした。
皆様方が この出来事を語り続けてくだされば 幸いです。
そうすれば それは永遠に伝説となることでしょう。

2 『遠望』によせて

梅光女学院同窓会により、一九八七年七月、『梅光女学院遠望』、続いて二〇〇四年五月、梅光学院同窓会により『梅光女学院遠望 戦後編』が刊行されています。卒業生による回想記を中心に学院の歩みを記録したものです。安冨惠子さんが、その都度楽しく生き生きと『梅光』誌に読後感を寄せて下さいました。〈活字の中の梅光〉そのものです。
『梅光女学院遠望』と『梅光女学院遠望 戦後編』、この二冊により一三〇年にも及ぶ学院の歩みをたどっていただきたいと思うところです。

『梅光女学院遠望』を読んで
読後感ということで気軽におひきうけしたものの丹念に読み返していくと、草創の時期から終戦時までの梅光に学ばれた方々の熱い思いが伝わってきて、むしろ畏れを感じてしまった。思い出というものは美化されがちだが、そんな懸念を吹き飛ばしてしまうほどの迫力がある。いまからでも羽織袴で丸山の寄宿舎に飛び込みたい気がするから不思議だ。「梅光」の文字が長崎の梅香崎女学校の「梅」と山口の光城女学校の「光」とで成り立っており、前者はヘンリー・スタウト夫妻によって、後者は服部章蔵らによってそれぞれ紆余曲折を経て礎がすえられていくくだりも実に興味深い。一八九九年に高等女学校が出来るまで、日本の女子教育は私塾に頼っており、特にキリスト教宣教師による私塾の働きにはめざましいものがあるのである。朝のテレビを見ていると、女主人公の一代記では必ずといっていいほど宣教師や教会が表れて、主人公の自立への動機づけをするわけで、キリスト教が伝道の一方策としてであれ、女子に学問への道を開いてくれたことは、実に感謝すべきことであり、この背後には女性も神の前に人として平等であるという思想があったからだと思う。

とにかく梅香崎にしろ光城にしろ、時に応じて場所を変え名を変えて存続し、一九一四年、米国からの寄付を得て、同じ長老教会系列のこの二校が中間地点の関門地区に合併して拠を構えることとなり、その壮大な学校大移動の模様は黒木五郎氏の「学校移転の記」に詳しく、面白く、このように学校という有機体が生成していったのかと、ロマンさえ感じる。しかし同じ長老派とはいえ、二つの学校が合流してトラブルはなかったのだろうか? この世の常としてはむずかしいことも本書を見る限り、広津院長のもとミス・ビゲローはじめ両校の先生方一丸となって新生梅光のために励まれた様子がうかがわれる。「昨日は何先生、今日は何先生と写真で見たばかりの先生方は前後して着任して、初対面の挨拶がすむと、もう何十年の知己のようだ。互いに労働者となって、泥沼の中を活動した」(三一頁)と黒木氏の文にはあり、かれらがこの世の名誉や成功よりも天にある一事を仰ぎ見て進まれたのだろうと思う。
さて、とにもかくにも梅光は文句なしに楽しい学校だったようである。同窓生が異口同音に口にするのは、西洋館での宣教師たちとの交わり、英語の授業やピアノのレッスン、関門を通過する有名人を次々招いた講演会、学芸会、梅光デー、毎朝の礼拝、野外英語劇、強化遠足など、今私達が聞いても羨ましくなるような充実ぶりである。その根底にはおそらく何よりも「愛」があったのであろう。温厚で慈父のような広津藤吉先生はじめ諸先生たちはみな一人一人の生徒を、個々の魂を何よりも愛していらっしゃったに違いない。どうしたら若い魂を正しく豊かに導けるか常に考えていらっしゃったに違いない。だからこそあれほど豊かに、文化面でも学習面でも運動面でも教育的配慮がなされていったのだと思う。
放課後、虚弱な一学生は広津先生のお宅で石綿をつめたお灸で治療していただいたという話 (一一四頁)や、またある身体の弱い女生徒は毎朝十時に宣教師の部屋に来るように言われて行くと牛乳かトマトジュースを一杯飲まされる。そのあと必ずあめ玉か肝油を一ついただいたという話(一九六頁)、また遅刻常習犯の生徒が呼び出されててっきりお目玉をくらうと思っていたら、卒業劇のプロデュースを任されてその日以来一度も遅刻しなくなって、それが遅刻の罰だったと納得している話(一九二頁)など、一人一人の魂をどんなに大切に教育がなされたかというエピソードで満ちている。
また学内には、クローバーやつつじ、あじさい、コデマリ、白バラ等美しい草木があふれるばかりに丹精されており、また西洋館、丘の上のあずまや、荘厳なチャペル、長い渡り廊下など、同窓生たちが口々にその美しさへの愛着を語っている建物があったことも印象的である。これも生徒に対する無言の愛であり、教育であると思う。学校が愛の場であったことと同時にもう一つ特筆すべきことは、学校が外に向かって使命を持っていた点である。
それはまさに「愛の業の実践」であった。愛された者はまたその愛を他者に向けることができる。広津藤吉先生は広く台湾、朝鮮、満州からも留学生や生徒を受け入れ、また関東大震災の救援活動、ライ患者との交流、出所者伝道の本間俊平師への応援とか、常に目を外へも向けていた人であった。その精神は生徒たちにも受けつがれ、ある人は社会事業家となり、またある人は伝道者、またある人は市井でボランティア活動を続けられた由、共々に「受ける愛」と「与える愛」の素晴らしさをかみしめられたに違いない。現在の梅光に、もし、嫁入り道具の一つにと親に請われて進学したり、偏差値でふりわけられてやむなく入学してきたり、実力をつけることよりも単位や卒業証書だけが眼中にある人がいるなら、今一度、学校で学ぶということはどういうことなのか問いなおしていただきたい。そして「われらの母校は山の上の城」と誇らかにその学生生活を謳歌し、したたかに英語や音楽、家政一般などの知識と実力を身につけていった先輩たちがいたことを思いおこしていただきたい。最後に、チャペルソング「The Lord is in His holy temple・・・」は梅光でれんめんと歌いつがれている歌だと知って驚いたが、今後いよいよこのチャペルタイムが梅光を支える屋台骨として充実していくことを望みたい。
❘『梅光』二〇号 一九八八年❘



Baiko Chapel Chant
The Lord is in His holy temple,
The Lord is in His holy temple,
Let all the earth keep silence,
Let all the earth keep silence,
Before Him! Keep silence,
Keep silence, Before Him!

連載:梅花くすしく 第13回

2021.10.30

二〇二〇年(令和二年)

一月二三日 朝日新聞
  「坪田譲治文学賞に村中李衣さん」という見出しに惹きつけられた。
村中李衣先生が梅光女学院短大で児童文学担当として着任されたのは一九八七年で、先生が野間児童文芸賞を受賞された年であった。手作り絵本展や読み聞かせの実習など学生たちは楽しみながら学んでいた。先生は二〇一四年に退任され、現在はノートルダム清心女子大学の教授である。今回の受賞作品『あららのはたけ』(偕成社)に対しては「いじめをとりまく子どもたちの心の動きを繊細に描いた」と紹介されている。心からお慶び申し上げたい。




二月二四日 「こだわり文化塾」
〈下関文化らく~ざ〉が開かれた折、村中李衣先生は〈未来はあるのか❘子どもの本から読みとく❘〉と題して、「子どもの広場」の横山真佐子さんと共に「こだわり文化塾」を開設されたので、私も参加させていただいた。人と人とのかかわりが希薄になっていく時代にあって、心を耕すことの楽しさ、ぬくもり、よろこびなどを味わいながら生きてゆくことがどれだけ大切か・・・久しぶりに心豊かな時間であった。



私にとって、いっしょに絵本を読みあう、
じいちゃんばあちゃんは、向こう側の人ではない。
今日という時間を持ちあう〈傍らの人〉なのだ。
傍らの人の呼吸を感じることで、
私自身の呼吸も、自然に楽になっていく。
そういう場所に、今、私はいる。
❘『絵本を読みあうということ』 ぶどう社刊 一九九七年一月❘

以前先生が出された本の表紙カバーにあることばである


四月一一日 読売新聞文化欄
「倉本先生の記事が読売に出てるヨ」と友人からの電話。佐々部清監督の急逝を悼んで書かれたものであった。タイトルは「『キネマの街・下関』夢見て」。故郷下関への思いを映画に込めて表現された『カーテンコール』を取り上げ、モデルとなった「みなと劇場」を中心に、周辺の「まるは通り」を登場させたことについて、先生は「これは戦後下関の一劇場を取りまく街並を正確に再現したのではない。ノスタルジーの中で描く、夢のような『キネマの街』を創ったのだ」と書いておられる。
また倉本先生も実行委員をつとめられたここ数年の「海峡映画祭」について、その立ち上げから佐々部監督が協力し、情熱をかたむけられたことが紹介されている。



監督は昔のにぎやかな下関を取り戻したいと願っていたわけではない。洗練された文化的都市としての未来像を探り、とりわけ映画を撮る・観る文化が根付く「キネマの街」になることを夢見ていた。その夢は共感した多くの市民に引き継がれることだろう。
❘読売新聞 二〇二〇年四月一一日❘

下関の未来に希望の灯がともされたようで、最近新型コロナウイルスのために閉ざされがちであった心が晴れた思いであった。


四月一六日 毎日新聞 オピニオン欄 新型コロナウイルスの緊急事態で、世界中が対策に追われているなか、渡辺憲司先生の「発言」が掲載された。「休校中 今こそやさしさを」という題で、感染症に対して差別や偏見が発することへの警鐘である。
かつてハンセン病、エイズ、水俣病、福島の放射能汚染などに伴う差別があった。この事実を直視し、今回のコロナ対策で教育現場が、最も危惧しなければならないことは「日常生活の中で平等に教育するという基本的思想が見落とされることが危惧される」と指摘されていた。
医療現場で働く人の子供が保育園通園をことわられたというニュースを見たばかりであったので、襟を正される思いであった。


四月二四日 朝日新聞 オピニオン欄
渡辺憲司先生はついで朝日新聞にも意見を述べておられる。見出しは「未来 夢見るより作ろう」。
休校中の子供たちに向けての視線をもっていくつかの具体的なアドバイスをされている。

残念だが、授業の再開を見通すのは容易ではない。
みな、自分たちの未来がどうなるか、不安だろう。
❘中略❘
厳しい経験を通して、どんな大人になっていくかを考えてみよう。
❘中略❘
ウイルスは肉体を、むしばむだけではない。精神や心をも侵してゆく。
 ❘中略❘
それだけではない。自己の誇りや人間性も奪っていく。
だからこそ、やさしさが必要だ。目の前の人にやさしさを向けよ。家庭でどんな役割を果たせるかを考えてみる。弟や妹の面倒をみよう。家族のために食事をつくるのもいい。遠く離れて暮らす祖父母に手紙を書いてみるのは、どうだろうか。やさしさは、やがて自らに帰ってくる。
想像力を働かせよう。病気になってしまった人を排除するのではなく、どんなに苦しんでいるかに思いをめぐらせる。
❘中略❘
日記をつけてみよう。
❘中略❘
散歩に出よう。これまで気に留めなかった雑草にも花が咲いている。吹きすさぶ嵐の中で、懸命に、いのちをともしている。
❘朝日新聞 二〇二〇年四月二四日❘

子どもたちの健やかな歩みを見守る者でありたいと願わずにはおれない。

(この冊子の発行日を広津信二郎先生のご召天の日、七月四日と定めました。先生方に関する記事の見落としもあったかもしれません。追加したいものもありましたが、二〇二〇年七月四日で、一区切りとさせていただきました。)


参考文献
1 渡辺憲司 『時に海を見よ』 双葉社 二〇一一年七月
2 村田喜代子 『縦横無尽の文章レッスン』 朝日新聞出版 二〇一一年六月
3 北川 透 「わが漂流 下関行」『文藝』 河出書房新社 一九九一年四月
4 矢崎節夫 『金子みすゞ こころの宇宙』 ニュートンプレス 一九九九年七月
5 赤江 瀑 『香草の船』 中央公論社 一九九〇年三月
6 山崎朋子 『朝陽門外の虹❘崇貞女学校のひとびと』 岩波書店 二〇〇三年七月
7 佐野眞一 『甘粕正彦 乱心の曠野』 新潮社 二〇一〇年一一月
8 吉村 昭 『生麦事件』 新潮社 二〇〇二年
9 辻井 喬 『西行桜』 岩波書店 二〇〇〇年六月
10 秋葉四郎 「雪中悲報来」『短歌』 カドカワ二〇一八年五月号

連載:梅花くすしく 第12回

2021.10.30

11 「令和」になって

二〇一九年は改元の年であった。平成三一年の一月ごろ、矢本浩司先生の講座に出席したことを契機に、この小冊子の制作を思いたって作業を重ねるうち、春には「令和」となり、例年にもまして歳月の速さを痛感させられた。
梅光も新しい歩みを進め、東駅キャンパスには新校舎も完成した。先生方やカリキュラムなども往年とは変わってくるのも時代の流れであろう。そのように思えば一段と、渡辺憲司先生の説かれる芭蕉の「不易流行」という言葉が心に染みたりする。梅光に関わられた先生方に関する記事など目に留まったものを追記しておきたいという思いは相変わらずである。この一年をふり返り、記事の内容も重みがある事を実感し、一年の歳月を費やしたこととも無駄ではなかったと思えてくる。順次、ご紹介したい。


四月一六日 読売新聞 文化欄(九州・山口・沖縄)
「『令和』導いた筑紫歌壇」という見出しで、万葉集の梅花の宴のことがとりあげられていた。その後マスコミで何度もとりあげられ、太宰府には観光客が押し寄せ多くの人が知ることとなったが、当初その記事は新鮮で雅な王朝風俗の写真と共に人目を引くものであった。

旅人(たびと)が大宰帥(そち)として赴任していた間、九州は内憂外患もなく穏やかであった。自然を尊び人生を楽しみ憂え、思索を深めていったのが筑紫歌壇の特色である。国際化にさらされた現代にあって、新元号を喜びと希望をもって受けとめたい。
❘読売新聞 二〇一九年四月六日❘

多様で柔軟な発想で、大伴旅人・山上憶良・沙弥満誓等の歌の紹介のあとこのように述べられた記事には、島田裕子・元梅光学院大教授寄稿とあった。島田裕子先生は一九八七年梅光女学院短期大学部に着任され、後に大学の日本文学科教授となられた。万葉集の研究(主に大伴家持)をご専門とされ、歌集に『コートに菫を』(短歌研究社一九九九年十一月刊)がある。

淡黄の氷菓のごとき月の真(ま)夜(よ)旅人(たびびと)算(ざん)を少女解きいる
人のなき坂をのぼれば雨のなかに白き花ふる樹より解かれて
濃緑の帆をはる船がはつなつの風にうねれり遠き林は
掌中におさまる手帳に記しおく未処理事項のずしりと重い
海峡の駅に着きまずうれしきは香ばしき麺麭(ぱん)の匂いたちくる

第一首から三首まで、淡黄・白・濃緑と色彩をとり入れて繊細な情景が描かれて印象深い。第一首の「旅人算」とは、算数で速さを題材とする文章題の類型の一つだそうである。四首目の歌は働く人皆が共感する思いであろう。最後の一首は以前の下関駅の雰囲気が思い出されて微笑ましい。
島田先生は授業や部活、「アルス梅光」などで短歌の実作も指導された。


五月二〇日 西日本新聞 投稿詩欄
偶然手にした新聞。投稿詩の欄に目をやると「北川透選」とあってびっくりした。寸評も添えられて懐しく拝読。


六月五日、六日 朝日新聞「折々のことば」鷲田清一編
六月・七月「折々のことば」欄では梅光に関して刮目すべきことが続いた。
六月五日は 村田喜代子先生の『飛族』から「人間は人に寄りついて暮らすものではねえて。長年ずっと土地に寄りついて生きてきたもんじゃ」が取り上げられた。
遣唐使が中継点として立ち寄ったといわれる西の離島は、今は齢(よわい)92と88の女性二人が住むばかり。大分に嫁いでいた娘が母を引き取るつもりで里帰りするも、きっぱり断られる。海に潜り、土を耕し、陽光と雨嵐と鳥たちから時に乱暴な挨拶(あいさつ)を受けた女たちは、地に打たれた棒杭のように《垂直の生》を生きてきた。
❘「折々のことば」二〇一九年六月五日❘
続いて六日も同じく『飛族』から「楽こそ恐ろしい」がとりあげられた。

・・・里帰りした娘が今も海に潜る母の連れにウェットスーツとフィンの装着を勧めると、こう返された。体が冷える、息が切れるという苦痛があるから、耳を壊したり、命を落としたりする前に引き返せる。
❘「折々のことば」二〇一九年六月六日❘

村田先生の筆力と、それに喚起される世界を紹介された選者の鷺田清一氏に感じ入った。


七月五日 朝日新聞「折々のことば」鷲田清一編
磯田光一先生の『戦後批評家論』から「『書く』ことから『虚栄』を引き去って何が残りうるか」が取り上げられた。

戦争が終わり何の「傷」も負わなかったはずのない文学者が、開き直り、人を揶揄し、時に道化めいたりしつつもついに誰一人筆を折らないと、苦々しい思いでやはり書いた文芸批評家・伊藤整。その述懐を引きとるかのように、同じ文芸批評家はこう書いた。「虚栄」以外に残るものがないのなら、この「絶望の意味を問う」ところまで立ち戻るしかないと。
❘「折々のことば」二〇一九年七月五日❘

これはこの後に紹介する、渡辺玄英先生の「戦争と詩人」と題する西日本新聞に寄せられた文と呼応して、興味深かった。
磯田光一先生は、梅光に大学院を開設するために奔走された佐藤泰正先生に懇望され、一九七六年、梅光女学院大学に着任された気鋭の文芸評論家であった。先生は、この本州西端の小さな峠の大学へお越しになるのを殊の外楽しまれたと聞いている。
佐藤泰正先生は磯田先生の講義日程について次のように記しておられる。

隔週でいいですと言っても、「いや専任者たるもの週に一度は学生に顔を見せねば申し訳ない」と言って、みずからに課した責務を誠実に励行された
❘『梅光』一九号 一九八七年❘

また先生が亡くなられたあと夫人から蔵書の寄贈を受け、梅光学院大学図書館に「磯田光一記念文庫」が設置されたことについては、当時の図書館長松尾文子先生が綴っておられる。

地方の小さな大学がこのような文庫を開設するのは珍しいということでお誘いをいただき、「第一〇回図書館総合展」に参加することとなりました。
❘『梅光』四〇号 二〇〇八年❘

続いて翌二〇〇九年にも『梅光』誌に松尾先生はこう報告されている。
『第一〇回図書館総合展/学術オープンサミット二〇〇八』(パシフィコ横浜)が無事終了しました。大学図書館の磯田光一記念文庫と故磯田先生をテーマに、特別フォーラムとブース展示を行いました。
これらを通して、稀代の文芸評論家、研究者、そして教育者としての磯田先生の偉大さを再確認しました。教育と研究の場において、磯田文庫を大きく育てていかなければならないと考えています。
❘『梅光』四一号 二〇〇九年❘

梅光の先生方の学問や書籍に対する熱い思いが伝わって来た。


八月一二日~一五日 西日本新聞 文化欄
「戦争と詩人」と題して、渡辺玄英先生が寄稿しておられる。
終戦記念日にちなんで、上・中・下・三回にわたる連載。大東亜戦争期、多くの詩人が戦意高揚のための詩を書き、敗戦後再び自由な(ふりをして)詩を書き始めたことに対する考察である。

重要なのは、何を書くかではなく、どのように書くかという表現の方法と質である。〈対象への向き合い方〉とそれを支える〈批評の力〉。これを戦争という事態への真摯な対峙とそれを批評的に表現する力と言い換えてもいい。戦争期、この両者が欠けていたのではないか。❘中略❘
戦後、生き残った若い詩人たちは、敗戦ばかりでなく、詩の敗北も噛み締めていた。詩の自由を捨てて戦争賛美を書いた詩人たちとは別の道を歩まねばならなかった。そして何より自分たちが直面した戦争と戦後に向かい合って詩を書き始める必要があった。
鮎川信夫、田村隆一らによる詩誌「荒地」はその代表的存在だろう。かれらの詩は戦争の傷を背負いながら、世界に対して、より思惟的かつ批評的なものになるのだった。
現代の私たちの詩はこの延長線上に存在している。
❘西日本新聞 二〇一九年八月一五日❘

渡辺玄英先生は二〇一一年は非常勤で、二〇一二年からは専任で梅光学院大学日本文学科で教えておられた。


九月二一日 読売新聞 文化欄(九州・山口・沖縄)
「震災後 希望見つめて」という見出しのもと、渡辺玄英著 詩集『星の(半減期』(思潮社)の出版が次のように紹介されていた。
〈まだ起きていますか。未来が死んだところです〉という語りで始まる表題詩は、レクイエムを奏でるような静かな筆致で滅んだ世界を描く。
〈耳を澄ますと/(夜のソラに/明日の朝のトリの囀りが消えていく/一月後の街の喧騒が消えていく/一年後のきみの声が消えていく/(あたりはしんとしているのに/たくさんの未来の声が(さいげんなく/きえていく(きらきらと/ほしのようだ(ほしのようだ〉
明日も今日と同じように続くと信じている未来など、ありはしないことをつきつける。「震災直後上京したら電力事情の悪化で、夜空に星がよく見えた。その光が何千、何万年も前のものなら、もしかしたらその星は、すでに滅んでいる可能性もある。それはどこかの星から見た、地球の姿でもおかしくない」
しかし、渡辺さんの詩の言葉は、絶望と向き合うことからしか本当の希望は見いだせないのだと語りかけてくる。
❘読売新聞 二〇一九年九月二一日❘

この記者の言葉を心に留めて、静かに向き合いたいと思った。


十二月一八日 朝日新聞 文芸欄
村田喜代子、『飛族』で谷崎潤一郎賞を受賞の記事。東日本大震災の年、村田先生はガン治療のため休筆されると聞いていたので、この記事は一段と喜ばしいものであった。受賞作『飛族』は「折々のことば」に登場していたと思い合わせ、本書のページを辿ると村田ワールドは変わらずユニークで健在。目からうろこの思いも味わった。


十二月 朝日新聞 広告欄
谷崎潤一郎賞受賞の発表後一ヶ月もたたないうちに、村田喜代子著『焼野まで』(朝日新聞出版)の新聞広告を目にした。ガン治療のため放射線を浴びる実体験をもとに綴られた文章は読む者の心を捕えて離さない。自分の体調はもとより、家族のこと、友人、患者仲間との交流、火山という大自然に向き合う土地の人々の生活・・・。どこを読んでも共感することが多く、自分もその場にいるような思いにかられた。
この厳しい現実に耐え快復されたこと何よりのことと安堵の思いでいっぱいである。
なおこの広告は新書版のものであった。調べてみると単行本は二〇一六年二月の発行。三年以上も前に作家活動に復帰して新作を出版しておられたことは嬉しい驚きであった。
作家と大学教授との両立、加えてガンとの闘い・・・不屈のお姿に敬意をお捧げしたい。

連載:梅花くすしく 第11回

2021.10.4

10 『短歌』「雪中悲報来」 秋葉四郎著
安森敏隆先生への哀悼歌

安森敏隆先生は一九七七年、梅光女学院大学日本文学科に着任。歌人としても高名で、学生や社会人に実作の指導もされた。一九八八年、同志社女子大学に転任されてからは「介護短歌」というジャンルを広められた。ご自身、奥様のお母さまの介護を通して、経験されたことがらや思いを詠むことによって、心を開放され、乗り越えることが出来たということから、同じ境遇にある人々に呼びかけられた。NHKテレビでも「介護百人一首」というテーマで公募があった。先生は選者をつとめ活躍されていたので、突然の訃報には驚かされた。先生のご逝去の報に接したのは、新聞の読者投稿欄に友人の方が弔意を述べられたものを目にしたからであった。そしてある日、我が家に届いたFAXは、カドカワ発行の雑誌『短歌』五月号のコピーであった。(FAXの送り主は元梅光女学院短大教授の原口すま子先生)。それは斎藤茂吉記念館の館長、秋葉四郎氏が「雪中悲報来」と題して安森先生を追悼されたものであった。


一月九日安森敏隆氏逝く

突然の悲報は雪中みちのくの茂吉記念館わがもとに来る
消息の絶えて半歳あはれあはれ悲報と共に故由(ゆえよし)を知る
かなしみに耐へ沈黙の時の逝き茂吉の森は雪降りしきる
父よりの遺言として知らせあり子息のこゑは亡き人のこゑ
ただ感謝するため遠く参りしと言(こと)にし出でて祈りささぐる
たまはりし恩に酬い得ぬ不本意が無念にてならず献花し居れば
キリストの御許に帰りたる君か別れて川西池田わが去る
所持さるる未刊歌集『とどろき』をめぐる茂吉論われは待ちゐき

お心のこもった〈献歌〉にお二人の友情、安森先生のお人柄が偲ばれる。
また、『梅光』五〇号(二〇一八年)には、安森先生への追悼文を武原弘先生(元梅光女学院短大教授)が寄せておられるが、その中に、朝日新聞のコラム「折々のうた」に安森先生の歌がとり上げられていたと記されている。そういえば・・・と思い出して自分の切り抜きで確認してみた。

妻は今夕べの鏡に入りゆけり髪かきあげて何のぞきゐる

大岡信の寸評には「ジャン・コクトーの映画などで学んだ技巧」とあり、安森先生の大きさを感じさせられた。

連載:梅花くすしく 第10回

2021.10.4

9 『西行桜』 辻井 喬著

「願わくは花の下にて春死なむ、そのきさらぎの望月のころ」の和歌で著名な西行法師に思いをはせ、書名に引かれて手にした一冊。竹生島、野宮、通盛、西行桜等々、能を意識しながら物語が進んでいく作者こだわりの短編集である。「通盛」の項に「赤間神宮で平家物語の勉強会が開かれ・・・」の一文があり、女主人公が「卒業した女子学園の講座を受講した」とあって、びっくりした。
梅光が「地域に開かれた大学」として早くから社会人を対象に公開講座を実践してきたことが作家の心に留められていて、このような設定になったのであろう。

この会は・・・多い年は年に三、四回。少ない年でも二回は開かれているという具合で数年続いていたのであった。メンバーのなかに国文学でも有名な梅光学園の教授がいたことは、この会を長続きさせる要素であった。❘中略❘ 母は月二回、卒業した女学院が校外授業として開いていた源氏物語講座や・・・の講演などに出掛けていた。
❘『西行桜』 一三一~一三二頁❘

この作品を読んだ当時(随分前のことではあるが)、学外講座で「平家物語」を担当しておられた宮田尚先生にこのことをお話ししたところ、作品の時代背景を考えると、自分よりも前の担当者であった村田昇先生のころでしょうねとおっしゃった。梅光女学院大学の公開講座は四〇年以上の歴史を持ち、近年は「アルス梅光」として多くの市民に学ぶ喜びを提供してきた。宮田先生も梅光女学院短大に着任されて以来、赤間神宮で「長門本 平家物語を読む会」を続けられ、大学の教授となられてからも熱心にとりくまれていた。つい最近までお元気でご活躍であったのに、二〇一八年の秋、訃報が届いた。「アルス梅光」の受講生で、講座の連絡係をされていた方の追悼文を通して長年「アルス梅光」にお力を注がれた先生を偲びたい。


宮田先生を偲んで
岡村映子(短日六)
  
昨年10月21日の早朝、その訃報は届きました。19日の夕方、先生から「今月の講義はお休みにします」とのメールをいただいたばかりでした。
  ❘中略❘
昨年の初めごろから、病気が病気だからと、時間を惜しむように講義をされていました。きっと先生は、毎回「これが最後の講義かもしれない」というお気持ちでおられたのではないかと思います。長年取り組んでこられた、赤間神宮での「長門本 平家物語を読む会」を、昨年4月に読了し、「源氏シンポジウム」では締めくくりの講演をされました。まるで、ひとつひとつの仕事を、整理するように終えられています。「下関で平家物語を読むことに意味がある」とおっしゃり、歴史の舞台で生活していることを感じさせていただきました。又、「時の流れの中で、あふれる情報の中から、信ずべき情報と、信じてはならない情報を冷静に分析することが、いつの時代にも大切な生きる知恵だ」と教えてくださいました。
平家物語の講義が始まってから、毎月いただいていた先生の随筆「〈平家〉余聞 海峡からの展望」が№二一一まで全て手元にあります。今後はこれを改めて読んでいくつもりです。
先生からいただきましたご恩に対し、深く感謝し、心からご冥福をお祈り申し上げます。
❘『梅光』五一号 二〇一九年❘

連載:梅花くすしく 第9回

2021.8.3

8 『生(なま)麦(むぎ)事件』 吉村 昭著

幕末から明治にかけて、激動の日本の姿が描かれている。資料から読みとって物語るドキュメントの手法は説得力に溢れている。事件の発端は、薩摩藩主の行列に出くわした英国人数人が道を空けなかったことに立腹して、薩摩の役人が作法知らずとばかりに彼等に切りつけ殺傷したことで、英国、幕府、薩摩の関係がギクシャクし、その上尊攘派の長州が関門海峡で発砲事件を起こし、薩摩藩は鹿児島湾で英国と実戦・・・と大混乱となった。
本書はこのいきさつを資料に基づいて個人名、数字など詳しく示しつつ、丁寧に描いている。海峡での出来ごとなど遠い事として忘れがちになっていたが、昨年は明治維新一五〇年、改めて身近に感じた。司馬遼太郎や古川薫の作品にも描かれ、大河ドラマにも登場して、みもすそ川公園には大砲のレプリカが設置され観光の目玉にもなっているが、本著では事件の後始末にふれ、英国側が賠償金を要求し、幕府は長州に命じて交渉にあたらせたこと、高杉晋作が、長州藩代表として英国船に乗り込み談判したことなど具体的に描かれていて迫力があり興味深かった。
巻末の「あとがき」に、著者の取材に応じられた方々への謝辞が述べられ、多くのお名前が記されていた中に「今村元市」とあるのをみつけた。今村先生は、梅光女学院短大・大学で一九八一年から一九九二年まで図書館学を担当され、また北九州市の郷土史家としても有名であった。奇兵隊を立ち上げ、倒幕の先頭に立った長州と幕府側小笠原藩(北九州)の戦いについて、今村先生はお詳しい方だったのかと偲ばれた。「もっちゃん」の愛称で学生にも親しまれた。笑顔が懐かしい。

連載:梅花くすしく 第8回

2021.8.3

7 『甘粕正彦(あまかすまさひこ) 乱心の曠野(こうや)』 佐野眞一著

往年の女優、木暮実千代(梅二一)を顕彰する会が二〇一二年に発足したのを機に彼女に関する資料を目にし、満映をはじめ、満州に興味が湧いた。甘粕は満映の理事長であり、終戦をもって自死した人物である。本著は甘粕に焦点をあてながら満州での人間模様を描いている。その中で、梅光及び下関に関連する人物の名前を目にした時の驚きは大きかった。その一人は藤山一雄である。藤山先生は大正一三年、梅光女学院の教員となり、専攻科創設に尽力された。当時の院長広津藤吉夫妻とも親交深く、冊子『広津先生の生涯』を残された。中でも「梅光井」に関しては広津夫人の貢献も大きく、前項の『朝陽門外の虹』での引用部分に藤山先生が書かれた文章を紹介させていただいた。
先生は梅光退職後、デンマークやスイスでの留学を経て、満州国国立中央博物館創設にあたり、副館長に就任された。今回、本著を読んだことを契機に改めて先生のご活躍を知り、思わぬ情報を知る事となった。例えば作家檀一雄の妹、寿美さんが、満州国国立中央博物館の職員であったこと、その当時副館長であった藤山先生の世話で結婚したこと、戦後帰国した彼女が下関の長周新聞でイラストレーターとして勤めていたこと等々、木暮や甘粕とは別に、興味深く引き込まれた。
二〇〇六年、梅光学院創立一三五周年を記念して、梅光学院大学博物館では「梅光女学院と藤山一雄❘その人と生涯をみつめて❘」展が開催された。このことを『梅光』三九号(二〇〇七年)に学芸員の佐藤睦子さんが紹介しておられる。それには、藤山先生愛用の太棹三味線も展示されていたと記されており、本書の一節に思い至った。

(藤山の)書斎にはトランペット、ピッコロ、三味線などの楽器類が雑然と置かれており、藤山の多趣味ぶりがうかがえた。
❘『甘粕正彦 乱心の曠野』 三六二頁❘

藤山についてはすでに述べたように、満州建国に際して独立宣言の草案を起草し、初代実業部総務司長や恩賞局長など満州国政府の高官を歴任しながら、義太夫を得意とし、小説を書き絵筆をふるい、音楽も玄人はだしという多芸多才な変わり種だった。
❘『甘粕正彦 乱心の曠野』 四七六頁❘

最後に当時の生徒から見た藤山先生像は・・・

専攻科担任の先生方はそれぞれに個性的な中で何と言っても圧巻は藤山先生で、何でも専攻科の習うべきことは全て彼に教わった。五年生の教室へ椅子を持参で教わったのは法政経済だったようだ。ドイツ語や、お気に入りの漢詩のコピーもたくさんいただいた。
❘堀山菊子(梅専1) 『梅光女学院遠望』 一六四頁❘

連載:梅花くすしく 第7回

2021.7.2

6 『朝陽門外の虹ー崇貞女学校のひとびと』 山崎朋子著

本著の出版を記念して山崎朋子氏の講演が大学キャンパス、スタージェスホールで行われた。
そのいきさつを、倉本昭先生(梅光学院大学 元地域文化研究所所長)が『梅光』四〇号(二〇〇八年)に掲載されているが、ここでは一部抜粋して紹介したい。

北京の天橋に「梅光井」なるものがあったのをご存じでしょうか。戦前のこと、飲み水すら乏しいスラムのことを聞いた広津藤吉先生が、生徒・教職員に呼びかけた結果、多くの賛助金が集まりました。そこで、矯風会・松風会という慈善団体の募った分と合わせて資金とし、スラムに井戸を掘らせたものです。
この美談に触れた『朝陽門外の虹❘崇貞女学校のひとびと』が2003年、岩波書店から刊行されました。内容は桜美林学園を創立した清水安三の一代記で、その中に「梅光井」の挿話がでてきます。
この本を書かれたのは『サンダカン八番娼館』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作家で女性史研究家でもある山崎朋子先生です。07年『朝陽門外の虹』中国語版の話題が新聞紙上をにぎわし、・・・先生ご自身来校を希望されていることがわかり、・・・ついに大学へお招きすることがかないました。講演会は同窓会と大学の日本文学会との共催で、・・・テーマは「女性史の窓から❘アジアと日本の女性交流をめざして❘」。  ❘中略❘
梅光を愛する同窓会のみなさまと、今の梅光で学ぶ学生諸君が、ともに会場を埋めながら、大先輩たちの美談を通じて母校の誇らしきアイデンティティーを確認できたと同時に、真のヒューマニティーについて深く考える機会をも得ました。
梅光が戦前から東アジアへのまなざしをそそいでいたことは、新たに門をくぐってくる世代にも語りついでいきたいものです。光の子たちの人間性の輝きが、かつて、虹となって北京❘東京❘下関にかけはしを作りました。今後も、校舎から地域社会へ、それを更に越えて、海峡を通じてつながる世界へと虹の橋をかけることが、わたしたちの未来づくりへの鍵となるはずです。
❘『梅光』四〇号 二〇〇八年❘

倉本先生は一九九七年梅光女学院大学日本文学科に着任しておられる。
〈梅光井〉のエピソードに触れた部分を『朝陽門外の虹』から二個所抜粋しておきたい。

水脈の豊かな日本でも、井戸を掘るのは多大な出費を覚悟しなくてはならない大事業だが、水脈の深い中国大陸では、日本に数倍する難事業だったのである。
真っ先に入用なのが資金だが、これは、山口県下関のキリスト教の学校である梅光女学校の生徒たちが醵金してくれた。完成した井戸が〈親善井戸〉と名づけられたのは〈日支親善〉の意味だが、また〈梅光井戸〉とも呼ばれていたのは、梅光女学校の生徒たちの好意への感謝からであったろう。
❘『朝陽門外の虹』 三三二頁❘ 
東京から北京を訪ねた山本琴子という人の「愛隣館物語」によるなら、親善井戸また別名=梅光井戸の使用状況は以下のようであった。❘「愛隣館の支那職員の一人が、或る長閑な秋日和の一日、朝八時頃から夜八時頃迄に水を汲みに来る老若男女の数を数へたところ、三百九十三名であったさうだ。ヤカンに汲む人、手桶、バケツ、手押し車などで水を運んで行く様々な水汲み風景が見られ、時にはゆっくりと愛隣館の庭に日向ぼっこをして行く人もあるさうである」、と。そして、「この夏、付近の大きい火事があった時にも、あの井戸は大働きをしたとの事、何もかもめぐみである」、と。
❘『朝陽門外の虹』 三三五頁❘

戦前の梅光女学院の生徒の活動がつたわってくるが、このことは学院の資料にも書き残されている。旧教員である藤山一雄先生が書かれた『広津先生の生涯』の中で、次のような文章があり、それは『梅光女学院遠望』にも引用されている。

かくて天橋の井戸はうがたれ、毎朝四時頃から掬み取りが始まり、そこの貧しい市民たちは清冽な水を飲用することができるようになった。(広津)先生は後年北京視察に出かけた折、一夜天橋の授産場に宿泊し、その井戸水掬みの実況を見たが、その井戸銘が「梅光井」と名付けてあるので、さっそく取消しを願い出たところ、矯風会会長林歌子女史はその意を了解して新たに「親善井」と改名し、今日もなお盛んに善用されている。・・・
❘『梅光女学院遠望』 一二六頁❘

藤山先生は、広津藤吉先生の奥様、志賀夫人が亡くなられた時には愛隣館では清水安三氏により盛大な追悼会が営まれたとも記されている。
また当時の生徒の手記も残されている。

関門海峡を通られる内外の著名な芸術家、宗教家、社会事業家、学者等々の方が、再三梅光に立ち寄られ、・・・全校生徒が講堂でお話を聴きました。 ❘中略❘
それは関門の一隅で私たちを、自分以外の事物に心を配ることや、広く世界に眼を向けることを当たり前のこととして考える人間に育ててゆきました。毎年秋の世界祈祷週間には見も知らぬ世界中の人々と同じ時に同じ心で祈りました。井戸の少ない北京の人々のために掘った井戸は「梅光の井戸」と名づけられました。❘後略❘
❘松隈佐記(梅二七) 『梅光女学院遠望』 三〇九頁❘

遠い昔の大先輩に拍手を送りたくなる逸話である。

連載:梅花くすしく 第6回

2021.6.9

5 『香草の船』 赤江 瀑著

赤江瀑氏は下関出身の作家で、一九八四年に泉鏡花賞を受賞された方である。
独特な作風でファンを魅了した。本著は、下関市蓋井島の神事をテーマにした論文を引用しながら都会の若者の死の謎に迫ってゆく物語である。その論文の著者、國分直一先生は「梅光女学院大学教授で、同大学地域文化研究所の所長でもある著名な民俗学者である」と紹介され、その論文を抜粋引用した旨、明記されている。
國分直一先生は、戦前、台北師範学校教授として研究と、学生の指導にあたっておられ、民俗考古学の世界的権威であった。
戦後、東京教育大学、熊本大学、下関の水産大学校を経て、一九七四年梅光女学院大学に着任された。「郷台地遺跡」の発掘には学生と共に尽力された。南方熊楠賞という大きな賞をはじめ数々の賞を受けられた。先生がご逝去された時、宮田尚先生が追悼文を綴っておられる。

❘前略❘ 八八歳で退職なさるまでの間に『倭と倭人の世界』ほか多数の著書を毎年のように出版するほか、雑誌『えとのす』の主幹をなさった。他大学に先駆けて、本学に地域文化研究所が設立されたのも、國分先生の力であった。❘中略❘ 先生の学問の中心には、台湾があった。大学卒業後、台湾で考古学や少数民族の民俗調査にあたられた先生は、いわゆる台湾学の基礎を築かれた。
❘『梅光』第三七号 二〇〇五年❘
國分先生の台湾時代の教え子、劉茂源先生は中国語担当教授として梅光に着任され、お二人の姿に麗しい師弟愛を感じさせられたことを思い出す。
『香草の船』はフィクションと論文の組み合わせという発想もユニークながら、神事の段取りの細やかさや、つつましい島民の生活が浮かび上がるような論文の暖かさに先生のお人柄が偲ばれる。
この原稿をまとめる作業をしていて、二〇一八年一一月、朝日新聞の「蓋井島の奇祭 継承へ簡略化」という記事が目に止まった。離島・蓋井島では奇祭「山の神神事」が行われる。辰年と戌年に催される六年に一度の祭で、二〇〇年以上の伝統があるそうだ。島民の高齢化のために中止も検討されたが、簡略化してでも伝統を守り継ぐとのことが、写真入りで詳しく紹介されていた。
『香草の船』には、次のようにその祭りについて記されている。

❘「山さらい」と「道つくり」❘
祭りの約十日前頃から、沖のしけた時を利用して集落から各山(森)に至る道路の手入れが行われる。(主として各組中の男の作業。月経時の女性は不参加。雑草の除去。崩れた場所の土あげ、埋め立て。浜の白砂を敷くなど)
山の森では祭りの前三日間をかけて神籬の周辺の清掃を行った上、枯れた立木を伐って、新しい神籬を作る作業が行われる。森の中に枯木を残さぬように注意し、枯れ木は根元から伐り取り、一間半乃至二間に整理して、もり寄せる。
神籬の前の土中に埋められている壺とその周辺の手入れ。 ❘後略❘
❘『香草の船』 七九頁❘
読み進むうちに、赤江氏と國分先生の熱い思いが伝わってきた。
伝統ある奇祭が守り継がれてゆくことを願うものでる。

連載:梅花くすしく 第5回

2021.5.21

4 『金子みすゞ こころの宇宙』 矢崎節夫著

児童文学作家であり童謡詩人でもある矢崎節夫氏は赤い鳥文学賞を受賞されている。また一六年もの歳月を経て金子みすゞの全作品をさがしあて、世に出した方として日本児童文学学会の「日本童謡協会特別賞」も受賞された。
本著では、みすゞの詩集にたどりつくまでのいきさつを次のように述べておられる。
「中学時代の友人、今井夏彦君が下関の大学で教えていて、」みすゞが下関に縁があることを知り今井夏彦先生にみすゞの手がかりを探してと頼んだことがきっかけで、みすゞの実弟のもとに保管されていた自筆詩集にたどりついたとのこと。
今井先生は梅光女学院短大、大学で、一九七四年から一九九二年まで英米文学を教えておられた。みすゞの詩集の発見にかかわっていらっしゃることはお聞きしていたが、矢崎氏がこのようにしっかり記録に残しておられるのは貴重なことと嬉しかった。
また、矢崎氏の「しかし、時は確実に甦りの時をきざんでいました」という一文はとても印象深く、みすゞの実弟に会えるまでのいきさつは感動させられる。

何度目かの訪問の後、ふと檀上春清さんの一文の中のことばを思い出したのです。金子みすゞは下関の商品館という建物に入っていた本屋の店番をしていたと。
❘金子みすゞという名前は忘れられていても、商品館という建物なら覚えている人がいるかもしれない。商品館という建物から捜し直してみよう。
さっそく今井くんに電話をして、このことを話しました。
「商品館という建物はもうなくなっているだろうが、そこに支店をだしていた本屋は残っているかもしれない。大正時代から続いている本屋を捜して、商品館に支店をだしていたか、もしだしていたら、金子みすゞという女性を知っているかどうか、尋ねてほしい」
電話で依頼した数日後の一九八二年(昭和五七年)六月四日、今井夏彦くんから電話が入りました。
「金子みすゞを知っている人が見つかった。下関の細江というところで、本屋をやっている花井書店の花井正さんという方で、金子みすゞのいとこにあたる人だ。商品館のことも知っている。君のことはよく話しておいた。今晩、君のほうから電話をかけさせてもらうようにもした」というのでした。
その夜、さっそく花井さんに電話をかけました。
「あなたのことは今井さんからうかがっています。でも、どうして今ごろ、金子みすゞのことを知りたいのかね」という花井正さんに、わたしは大学一年の時に「大漁」を読んで、金子みすゞを好きになり、それからずっとみすゞ捜しをしていたことを話しました。
「みすゞはいい子だったよ」と、花井正さんはいわれました。それから、商品館は今でいう名店館で、そこに上山文英堂という本屋の支店が入っていて、ここでみすゞが働いていたこと、みすゞはペンネームで本名は「テル」ということなどを教えてくださいました。
もっとくわしいお話をお聞きしたいので、明日一番の新幹線で下関にうかがいたいというと、花井さんは、「そんなにいうなら、わざわざ下関に来られなくても、みすゞの実弟が東京にいるので、そちらに行かれたほうがいいでしょう」と、思いもかけないことをいわれたのです。実弟とはどんな方ですか、というわたしの問いに、「上山雅輔といって、東京の荻窪にある劇団『若草』の創立者で、今も演出部長をしているはずです。『若草』の電話番号はわかりますか」「はい、調べればすぐわかります。それでは、まず上山雅輔さんにお会いしてから、一度下関におうかがいしますので、その時はどうぞよろしくお願いします」「わかりました。お待ちしています」
❘『金子みすゞ こころの宇宙』 二二~二三頁❘

もし、今井夏彦先生が梅光におられなかったら・・・もし、みすゞの実弟の消息をつきとめるのがもう少し遅れていたら・・・金子みすゞの世界は埋もれたままになっていたかもしれない。このドラマチックな現実を多くの人に知ってもらいたいという思いが強くなった。
今井先生は、秋の読書週間によせて次のように書かれている。

君たちは、図書館にある〈100冊の本〉の中の『わたしと小鳥とすずと』という詩集を知っているだろうか。・・・実は、この詩人は、ぼくの親友の矢崎節夫という童話作家が、5年ほど前に50年ぶりに発掘し、ぼくもその一役を担ったという事情がある。・・・子どもは大人のはじまりだという。しばし童心にかえって、みすゞの祈りの詩ともいうべき作品に耳を傾けてみようではないか。そうして、それぞれの秋にそれぞれの幼い自分に思いを馳せてみよう。
❘梅光短大図書館報『パピルスの森』三号 一九八七年❘
この頃から、金子みすゞの詩は脚光を浴びるようになった。
代表的な詩と、私の心に留まった詩とを紹介してみたい。

金子みすゞの詩


  大 漁

   朝やけ小やけだ
   大漁だ
   おおばいわしの
   大漁だ。

   はまは祭りの
   ようだけど
   海のなかでは
   何万の
   いわしのとむらい
   するだろう。




  みんなをすきに

   わたしはすきになりたいな、
   何でもかんでもみいんな。

   ねぎも、トマトも、おさかなも、
   のこらずすきになりたいな。

   うちのおかずは、みいんな、
   かあさまがおつくりなったもの。

   わたしはすきになりたいな、
   だれでもかれでもみいんな。

   お医者さんでも、からすでも、
   のこらずすきになりたいな。

   世界のものはみィんな、
   神さまがおつくりなったもの。




❘『金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと』
矢崎節夫選 JULA出版局 一九八四年❘

連載:梅花くすしく 第4回

3 『文藝』「わが漂流、下関行き」 北川 透著

北川透先生は一九九一年、梅光女学院大学及び大学院に赴任された。長年馴染んでこられた豊橋の街や家、築いてこられた職場、それに創刊から携わってこられた詩と評論の雑誌『あんかるわ』。あらゆるものを切り上げて、下関という未知なる街、梅光という知名度の低い大学に移ってこられたのは、当時の学長、佐藤泰正先生のお誘いがなかったらありえなかったと綴られている。

わたしは豊橋という街を愛し、その街にある愛知大学の学生たちが好きだった。そして、自分の子どもたちが育った家を取り壊してしまうことに耐えがたい痛みを感じている。多くの友人たちや知人たちと別れるのも、とても淋しい。しかし、どうしてもわたしの内部にあるものに決着をつけるためには、こういう方法をとるしかなかったのだ、と思う。
❘中略❘
わたしの〈漂流〉は、さしあたっては下関行きというところへ帰着したのだ、と思う。
❘雑誌『文藝』 河出書房新社 一九九一年四月❘

こうして先生は下関で、梅光で、活躍された。学内はもとより、中原中也賞の選考委員や中国新聞の「中国詩壇」の選者も務められた。
また詩集『戦場ヶ原まで』(一九九二年一〇月思潮社)、『続・北川透詩集』(一九九四年思潮社)、『萩原朔太郎言語革命論』(一九九五年筑摩書房)、『溶ける、目覚まし時計』(二〇〇七年七月思潮社)、『窯変論』(二〇〇八年一〇月思潮社)と詩集や論集を発表された。手にしてみたが、全体的に難解。そのことに触れて先生は次のように記しておられる。

詩を書く経験のなかで、もっとも大きいものは何だろう。それは常にことばと向き合い、ことばの生きた働きに注意している、ということである。
ことばが生き生きと働くということは大切だが、それは単にたくさんの人に伝わるということではない。それだったら、分かりやすく通俗的なことばを用いて詩を書けばよい。しかし、そこに本当に生きたことばの働きがあるのか、何かが伝わったとしてそれは何なのだろうか。むしろ、この世の中には、どんなにことばを尽くしても伝わらないものがある。そのことばにしえない心の闇にことばで触れること、そこに詩があるのではないか。
今年のもっとも衝撃的な事件としてこの暮れに誰もが触れるものに、旅客機によるニューヨークの貿易センタービルの破壊とテロがあるだろう。それが不気味なのは、そこにことばがないからだ。この世には、ことばが届かないところがある、ことばが通じない世界がある。だからその暴力的な解決としてテロや戦争が起こるのだろう。ことばにしえないものにことばで触れようとする詩があるところ、そんな詩を大事にするところに暴力や戦争は起こらない、と思う。
詩を書くということは、ことばの力に望みを託すことだ。アフガンにもきっと詩人がいるだろう。彼らはどんな歌をうたい詩を書いているのだろうか。
❘中国新聞 一二月二八日 「二〇〇一年選を振り返って」❘
他にも、先生のお書きになった、エッセイや評論、作品論などを通して、先生の奥深いところにある何かが伝わってくることもあった。「下関への漂流」がもたらしたものについて、お伺いしてみたい気もする。
しかしこの項目でいちばんお伝えしたかったのは、別のこと。ねじめ正一著『荒地の恋』(二〇一五年一一月文藝春秋)を読み終えて、巻末の参考文献一覧を眺めていたところ、そこに『荒地論 戦後詩の生成と変容』(北川透著)とあるのを見つけた時の驚きである。思わず「ほう」と言いたくなる気分であった。「荒地」は田村隆一を中心とする詩の結社。いろいろな詩人の出入りがあるが北村太郎もそのひとり。そして田村の妻との恋愛などと複雑な男女関係が展開するが、現実とは思えないなと、ちょっと近づきがたい感覚で読んでいたものだから、北川先生がお詳しいとわかって、急に身近に感じたりして、先生の幅広いお仕事を実感した。
先生が梅光に在職中に刊行された『続・北川透詩集』にサインをお願いしたところ、次のような詩を手書きで認(したた)めてくださった。海を見るたび今も心に蘇る。

ほんとうは/どんな色にも似ていないあの/海の色
そのたとえようもない/不思議な波動を/あなたに

連載:梅花くすしく 第3回

連載3回

『縦横無尽の文章レッスン』 村田喜代子著

村田喜代子先生は二〇〇〇年に、梅光学院大学文学部 日本文学科の文芸創作コース客員教授として赴任された。芥川賞作家の先生の著作は発表されるとその都度注目され、新聞・雑誌の新刊紹介欄や書評欄でとり上げられる。私が本著の存在を知ったのは田中貴子氏による朝日新聞での書評によってであった。

本書のユニークな点は、小学生の作文から理系の学者の文章、童話など、ジャンルを問わずおもしろい文章を教材として提示していることだ。それを読み、味わい、そして自分でも書いてみる。その繰り返しを基本として、何をどう書くかの具体的な実践方法が語られていく。何しろこれは、著者がある大学の文章講座で実際行った授業をもとにしているのだから、わかりやすくて役に立つのは当然である。❘中略❘
本を開きさえすれば、村田ゼミはいつでも開講中です!
❘朝日新聞 二〇一一年❘

実際、ページをたどっていくと、魅力にあふれる授業風景が展開しており、学生に戻ったような気になって引き込まれる。ナマでこの授業に参加出来た学生たちはなんと幸せなことだろう。前期第一週から後期第六週まで、毎回用意されるテキストと先生の解説。学生たちの反応は活発で、読んでいて大いに刺激を受けた。

良い文章というものはすらすらと読める。よくない文章はあちこちで引っかかり、疑問や矛盾が生じて頭に入らず、なかなか前へ進まない。すらっと読める文章は読み飛ばさないよう気をつけること。
良い文章と出合っても、自分が良い文章を書けなければ、読んでもなかなか気付くことが出来ない。どんなものが良い文章なのか、良くない文章なのか、わからない。だがそれでも一行ずつ手を取るように説明していけば、やがてゆっくりと理解の窓が開いていくだろう。
聞いている学生たちの顔がさっきより、ほんのりと明るくなってきた。
❘『縦横無尽の文章レッスン』 

村田先生の授業方法については、次のように述べられている。

教室で文章を書くときは大体いつも四十分間と決めている。原稿用紙は使わない。ノートを破いて一枚使用する。そのほうが集めた後でコピーしやすい。原稿用紙だと紙数がむやみに増える。筆記具は鉛筆。消しゴムで消して清書すればいい。
ときどきはパソコンで清書してもらうが、普通は授業ごとに必ず一回、このようにして書く。書くことに腰が重くならないよう、気軽に書こう。気楽に書こう。ひょいと書こう。下書きのつもりで書こう。気負わないで書こう。失敗しても書こう。
要は書くこと。
みんな思案し始める。鉛筆を握って考えている。こんなふうにいきなり書かせて結構書けるのが、若い人たちの素晴らしいところである。社会人になると、さあ書け、と言ってもさっとは案が浮かんでこない。若い人はそれが出来る。浮かぶのである。ただし、書かせないと出来ない。授業時間に有無を言わさず書いてもらうのはそのためだ。
書かないと、書き上がらない。書けば、書き上がる。
そういうことである。
みんなが創作に取り組んでいる四十分間、私は図書館に行って姿を消している。好きなようにしゃべり合ったり、トイレに立ったりして、自由に書いていい。さて、時間が経って紙を回収する。汚い字がずらずらと並んでいる。学生の文字の下手なこと。しかし字の汚い原稿ほど妙に中身は面白かったりするのだから、油断はできない。
書き上がった作品は授業の中休みを取って片端から読む。そしてこれという作品を選んで本人に朗読してもらう。最初のはショート・ショートだ。
❘『縦横無尽の文章レッスン』 

若返って、こういう授業を受けてみたい。
そんな「とほうもない」思いにかられる。学生たちは卒業して社会に出て、人生の歩みを進めながら若き日の幸せなひとときを思い起こすに違いない。どの頁を開いても肝に銘じたい言葉が溢れている。学生たちの若い感性、先生の鋭くも暖かい批評、ランチタイムのおしゃべりのウイット。書き写せばまるごと一冊、と思ってしまう。本著の中から、もう数個所引用させていただきたい。

北九州からJRに乗って週一回、関門海峡を越えて下関へ行く。門司駅の近くまでくると列車の窓に海が現れる。見るなり私はドキッとする。毎週、毎週、ドキッとする。
立て込んだ工場区の間に突然、真っ平らな、何もない、水だけのスペースが現れる。それがツーと車窓を横に滑っていく。こんな何もない水の空間は、普通、町の中ではお目にかかれない。風景がそこだけストンと真っ平らに凹んでいる。
こんなに何もなくていいのだろうか。こんな水の色だけの空間が都市の景色の中にまぎれこんでいる。工場と町と煙突ばかりのせせこましい土地に住んでいると、海や山や自然というものをつい忘れて暮らす。ふいに現れた水ばっかりの空間が、目に慣れない奇妙な景色となって迫る。
春先の晴れた日の海は、これまた目を疑うばかりの黄緑色だ。いつだったか学校で生物学の教授に聞いたが、春は海の中でも芽吹きの季節なのだという。それで山の新緑が引っ越してきたような色になるのだ。今朝の海面は黄緑に乳白色がふんわりと溶け込んでいる。なんでそうなるのか不思議だが、まるで入浴剤のバスクリン色・・・。
門司駅を通過すると間もなく列車は関門海底トンネルに潜る。轟々(ごうごう)と海の底をしばらく走って、対岸の下関の駅に着く。そこから市内バスで十五分くらい。町の通りには『〇〇雲丹本舗』だとか『ふぐ料理〇〇庵』だとか、『海鮮くじら亭』なんていう看板が目につく。トンネルを抜けると鉄の町から魚の町へ変わってしまう。
駅前で市内バスに乗って山手の町の大学へ。
❘『縦横無尽の文章レッスン』

大学の長い夏休みが終わると秋である。
学校へ行く途中、列車が門司に着いたときふっと気が変わって、下関行きに乗り換えるのをやめ、終点の門司港まで行ってしまった。
門司港駅の改札を抜けて外へ出ると、秋日和の海峡が日射しを一杯に溶かし込んで光っていた。駅のすぐそばから対岸の下関まで連絡船が通っている。ポンポンポンと音を立てて走る可愛い船だ。海路たったの十分足らず。今朝みたいな上天気の日は、暗い海の底を通るのはもったいない。連絡船は波を蹴立てて海上を走る。❘中略❘
船の切符を買って時計を見ると少し間があったので、渡し場の前の通りをぶらぶら歩いた。渡し場の建物とはす向かいに、戦時中の「軍馬の水飲み場」跡が残されている。❘中略❘
連絡船はあっという間に対岸の下関に着いた。
唐戸(からと)魚市場のそばの渡し場で降りる。海をはさんでこっちにはフランシスコ・ザビエル上陸記念の碑が建っている。 通りでタクシーに手を上げて、大学までワンメーターちょっとで行く。いつもより三十分ほど遅れて校門を入った。
ほんの短い朝の寄り道。

❘『縦横無尽の文章レッスン』


私達がいつも見慣れている風景もトンネルや連絡船も先生の手にかかると、とても新鮮なものとして迫ってくる。文章を読むこと、そして書くことのコツや楽しさ、日々の暮らしの中で身につけていきたい。最後に学生の文章を読んでみよう。お題は「二〇〇〇年間で最大の発明は何か」これはテキスト(ジョン・ブロックマン編 高橋健次訳 草思社 二〇〇〇年刊)のタイトルと同じである。
「ユニークな意見もあり、もう一息というのもあり、様々だった」と先生がおっしゃる通り大胆な文章が続く。一例をあげる。先生によると「この短さは凄い」のである。

髪ゴム
N・T ♀
女性が髪を結ぶことによって、女性らしくあることを捨てず、あらゆるスポーツにおいての記録をのばすことを可能にした。
世界のプロテニス・プレーヤーであるマリア・シャラポワのような、「恋もおしゃれも楽しみたい!」という、若きチャレンジャーたちが輝くための、画期的かつ低価格なものであることは間違いない。
❘『縦横無尽の文章レッスン』 

これに対する村田先生の講評は短くも流石!

これはまたリップクリームよりもっと小さなものだ。
髪の毛を束ねて止める、あの小さな黒い輪ゴム。
激しく飛び跳ねる女性の姿は魅力的だ。そして強い女性は美しい。ブラボー、髪ゴム。
❘『縦横無尽の文章レッスン』 

先生は二〇〇〇年から二〇一九年春まで足かけ二〇年間も梅光で授業をしてくださっていたことに驚く。もっと早くこの宝物に気づくべきだったと思う。

連載:梅花くすしく 第2回

連載2回

第1章 活字の中の梅光

=心豊かな学びの余韻=  権藤市津代

1 『時に海を見よ』 渡辺憲司著

渡辺憲司先生は一九七八年から梅光女学院大学で教えておられたが、一九八八年立教大学へ移られ、二〇一〇年立教新座高校の校長になられた方である。本著は東日本大震災直後、卒業式が中止されたため生徒に向けて学校のホームページにメッセージを公開したところ、ツイッターなどで評判となり、全国に広まったものに加えて、先生の持論を述べられたものである。二〇一四年梅光の同窓会総会で講演されたのを機に本書を手にした。
海を眺め、古典に学び、他者への思いやりをもって生きること・・・この大きな理念を忘れないようにと、わかりやすく力強い励ましの言葉は、若者のみならず、私のように年齢を重ねた者の心にも響いてくる。共感をもって読み進むうちに「梅光女学院短期大学は理念に殉じた」という一節に出会ってハッとした。

高校三年生を送り出した後、私は下関の女子短大へ転じた。
その短大は二〇〇四年度から学生募集を停止し、大学に統合され廃止となった。
創立の理念を守り通した伝統ある女子短大であった。理念を守り時代に逆行した例であるかもしれない。教育にもっとも必要なのは、理想を追い求めることである。キリスト教主義による女子教育を標榜したこの短大は、浮薄な時代の流れの中で、理念に殉じたといってもいい。
真面目さに真正面から向き合う学校であった。習慣性のある規律が、教育の本柱となることもここで学んだ。
日本の教育行政は、あまりにめまぐるしくその方向性を変えている。不易な理念を確立する努力を惜しみ、流行に翻弄され、奔走して来た。現場の叫びを無視し、教育に目前の功利を求め、若者たちの未来を奪っていったのではないか。長く、広く、大きな評価を放棄した教育は、若葉の芽を踏みつけにする。 下関は海峡の町である。
海峡を流れる潮は、東から西へ、西から東へと、激しくその流れを変える。潮流は中世の武家社会成立の流れを大きく変え、源氏を勝利に導き、また、倒幕を促し、市民社会の明治を招来した。時代を語り継ぐ海の町である。
海と、自然と、向き合いながら、この町は私に落ち着きを与えた。私の学問研究の源泉である。
❘『時に海を見よ』 双葉社 

右に引用させていただいた部分は、先生の梅光に対する深い愛と下関の町に対する暖かいお気持ちが綴られている。「殉じる」ことの是非はさておき、このように明記されると梅光の教育方針は、私の中でいっそう輝かしいものとなった。
大学へ通われる道すがら、目にされたであろう響灘。研究テーマをもって散策されたであろう関門海峡沿いの散歩道、先生は海と向き合いながら思索を深めていかれたことと推察される。梅光と下関の町に注がれる先生のまなざしを嬉しく思った。
また次のような文章に出合ってさまざまに姿を変える「海」の無限の姿に改めて気づかされた。
言語学者で国語学者でもある金田一春彦の著書『日本語』によると、英語や中国語など他の言語に比べると、日本語は海の中の場所の違いを区別する言葉が豊かだという。日本語には、「沖」、「浦」、「灘」、「浜」、「磯」、「渚」といった言葉があるが、中国語にはないらしい。これら日本語独特の言葉が存在するのは、日本の風土が様々な美しい景観を有しているということだ。
 ❘『時に海を見よ』
 
この指摘により日本の風景が日本語の繊細さと豊かさををもたらしていると教えられた。

この冊子の準備のため、気忙しくしているころ、雑誌『明日の友』(二〇一七年冬号婦人の友社刊)に渡辺憲司先生と村田喜代子先生の対談が載っていると友人から知らされ、タイミングのよさにびっくりした。
テーマは「心浮きたつ旅をしよう」。読みながら旅の達人は人生の達人という思いを強くした。
「自分の心がどこかに連れ去られること。それが〈旅〉だと思うのです。」(村田)
「旅は若さを呼びますからね。」(渡辺)
お二人のことばに納得。大いに励まされた。

渡辺憲司先生は現在、自由学園最高学部長になっておられる。

連載:梅花くすしく 第1回

この度、権藤市津代さん(高13卒・梅光学院短大図書館・中高国語科教員勤務)と安冨惠子さん(短大・大学勤務)の共著で「梅花くすしく」が刊行されました。限定数の非売品ですが、贈呈を受けた方々はそれぞれに感銘を受けておられます。同窓会にも贈呈をしていただきました。
同窓会はお二人にお願いして、その内容をホームページで紹介する事にいたしました。多くの同窓生に読んでいただきたいと考えています。
掲載は、連続ものとして紹介する形式をとります。

「梅花くすしく」感想…懐かしい先生方からのお手紙

☆今井夏彦
寒中お見舞い申し上げます。 この度は「梅花くすしく」2冊送っていただき、どうもありがとうございました。
この本は皆さんにとって思い出という宝物がたくさん詰まった玉手箱ではないでしょうか。ページを開くたびにさまざまなできごとが蘇ってまいります。気がつけば昔に戻ったように思い出にひたっています。
これからますます寒くなります。
どうぞくれぐれもご自愛専一の程、お祈りいたします。 本当にありがとうございました。

☆北川透
此度は『梅花くすしく』二冊は拝受しました。お世話様でした。出かけていて、返事遅れ失礼しましたが、同窓会ホームページの件、ご随意になさって下さい。


☆渡辺玄英
新年あけましておめでとうございます。
『梅花くすしく』の刊行、とても喜ばしく、内容も充実して読みごたえがありました。刊行に至るまでにたいへんなご苦労があったのではと拝察いたしております。
同窓会のホームページ掲載には、大賛成です。今こそ、梅光の真価を新たに思い起こす時と感じております。そして決して失われないでいてほしいものです。新型コロナの感染拡大が止まりません。どうぞご自愛されてお過ごしください。
敬白


☆島田裕子
拝復
新しい年の初めのお慶びを申し上げます。御書賜りありがとうございます。ホームページ等の掲載承知いたします。御書 読み出したらとまらない力作ですね。良き梅光を思い出し、それこそ梅光の根幹だと思いました。御身御大切になさって下さい。
かしこ


☆渡辺憲司
謹啓
寒い日が続いております。コロナ禍も続き、まるで薄氷を踏むような毎日が続いています。
不安な日々の中で、あたたかな心温まる御編著をいただきました。
心よりあつく御礼申し上げます。下関、梅光での日々は、私にとって学問・研究の源泉だと感じていましたが、研究のみならず、私の血肉の源であったと、御編著を読み強く感じました。
又、小生のことをとりあげていただいたことも、思い出の記憶として望外の思いにて、心より感謝御礼申し上げます。
あらためて下関での思い出が湧き上がってきました。殊に、佐藤先生、向山先生のことは、心にしみました。本書を読まれる方は、尽く梅光の礎に御二人の大きな力のあったことを心にとめることと思います。
梅光の未来の大きな糧となることであろうと確信します。
御二人のご苦労に心よりの敬意を表します。
まことに、小さな宝物をいただいたような心持です。日々の祈りの中で本書を思いだすことと思います。いつの日かまた海峡の海を見に参じたいと思っています。三月末で自由学園を辞しますので、時間が出来そうです。
御身くれぐれもご自愛のこと、心より祈念いたします。
敬具


追伸
二月末に、小生が自由学園最高学部長ブログで取り上げた話題と“時に海を見よ”の一部を再掲載した文庫本が角川より出版予定です。その本に佐藤泰正先生の訃報に接した時のことを記し新収しました。刊行されましたら御送り致します。
書名は仮題で「生きるために本当に必要なこと」ですが、どうも人生読本のようで気に入らずにいます。
安富さん、向山さんのこと何も知りませんでした。アメリカでの苦労話は庭でよく聞きましたが、あらためて先生への尊敬の思いを強くしました。文教台のこと、家内と一緒に読みました。思い出の二人で胸がいっぱいでした。安富君にくれぐれもよろしくお伝えください。


連載1回

梅花のかおり


権藤市津代

高齢化の波が押し寄せ、古き良き梅光を知る人も次第に少なくなっています。
心寂しく思っているとき、本や新聞、雑誌などを読んでいて、思いがけない一節に出会い思わず「エッ」とか「ほう」とか言いながら、胸躍ることが何度かありました。「梅光」というキーワードに触れた時です。梅光で教えて下さった先生方のお書きになったものや先生方に関する評論など、ずいぶん古くなった記憶も掘り起こし自身の覚え書きとしてまとめてみました。
人としての生き方、教育のあり方、自然が教えてくれる厳しさ、瑞々しさ、また文学や歴史の奥深さなど改めて多くのことを教えていただきました。
第二章では『遠望』や『梅光』誌の中から梅光ならではのエピソードの数々をご紹介しています。
第三章は安冨惠子さんによって、幡生の文教台に寄せて「梅光ファミリーのこと」、渡辺憲司先生、向山義彦・淳子先生、佐藤泰正・亰先生のことなどご紹介いただきました。いっそう充実したものとなったこと、この上ない感謝でございます。
また、表題の『梅花くすしく』は校歌の一節「関門の空 高く輝きて 梅花くすしく 匂えるところに・・・」がふと心に浮かび、この小冊子の題として「梅花くすしく」はどうだろうかと思い至った次第です。
卒業生お一人お一人が心に留めてくださることを願いつつ。


あの頃のこと


安冨惠子

私は非常勤講師として、一九八六年秋から十数年、梅光短大におりました。
その時期はほとんど、権藤さんと重なります。権藤さんはずっと司書として、短大の図書館におられました。
図書館の入口の掲示板には、折々の新聞、雑誌などから、梅光関係のニュース、梅光関係者に関する記事、その著作、書評など、切り抜かれて、コピーが掲示されていました。
それらを目にするのは楽しかったし、誇らしくもありました。 図書館の職員の方々は、毎日目を皿のようにして、その切りぬきにいそしまれていたことでしょう。その習性が、権藤さんの「活字の中の梅光」の根源に在ると、私は思います。
「梅光」と聞いただけで、見ただけで、背筋がしゃんとするような、胸が熱くなるような梅光愛が、権藤さんの中にも、他の同窓生の方々の間にもあるのだろうと思います。
今回、長年ためて来られた、それらの断片の集成が小冊子にでもなればと願いお手伝いをさせていただきました。書物にするためにはどのような内容、体裁を整えるべきか、いくぶんかの時間がかかりましたが、実現出来たことは何よりと思います。 

新緑の頃

片山宣子

 4月も中旬を過ぎると山は新緑に包まれる。様々な木々が新しい芽吹きで複雑な色合いを見せてくれる。赤紫系統から灰白色までの幅広い色調、緑のグラデーションも豊かに山全体が正に新緑の季節である。

 この時期になるといつも思い出すのは50年前に俳句について教えていただいた青山なを先生のことだ。粋な和服姿と鼻筋の通ったお顔。梅ケ峠の山々の、新緑の息吹をため息交じりに眺めながら「緑の毒気に苦しくなる」と語っておられた。あの頃の私は若く、繊細な先生の感覚は理解できず、ノートに先生の似顔絵をスケッチするのに夢中だった。でも不思議に先生の言葉は印象に残り、今も覚えている。

 現在、私は先生の年齢に近づいているが、この時期を乗り切るにはかなりのエネルギーを必要とする気がしている。自分の誕生月が近くなることも関係するのかもしれないが(年齢を一つ重ねるという思いは大きい)、圧倒的な自然のエネルギーに対峙する内なる力が必要だ。毎日の雑多な忙しさの中で自分を見失わずに明るく生きていくこと、納得できる自分らしさを持ち続けることは簡単ではなく難しい。そんな思いに打ちのめされて新緑のエネルギーに打ち負かされ日が続くこともある。苦しい日々ということもあるのだ。

 話は全く変わるが、先日親戚で集まることがあった。おいしい食事をいただきながら、50台になる理系の現役世代と60代で資格を生かして第二の仕事をしている二人の男性と私の三人で話が弾んだ。海外に住むことが多く、やっと日本も面白いと感じるようになった50代は、今、農業に関心大で、農業と科学知識で新しいことを生み出したいと意欲的に仕事を楽しんでいる様子。話が竹林のことになり、竹の利用について話していた時、60代が、こちらは建設業を長くした人物だが、「僕らの業界では竹は水分を多く必要とするもので、竹林のある場所は工事を避けたい地盤だと見るよ」と話しだす。本当に面白い。人は自分の知識や経験で自分の見方を構築する。だから同じものが違って見える。なるほど、だから異業種交流が必要だし、異文化、異なる意見が重要になる。知識や経験の重要性、陥りやすい独善性にも思いが拡がる。学び合うのは面白いし、心も頭もお腹も満足の午後だった。

 最後に、同窓会総会・懇親会に出て久しぶりに友と会い、それぞれの見方で、いろいろと語り合うのも楽しいと思いませんか。お待ちしています。

四月

片山宣子

 今年は、4月1日が土曜日であったため、年度初めが3日からというところが多かったようだ。テレビニュースの入社式報道が四分休符の後みたいな印象があった。エイプリルフールの話題が耳に入らなかったのは、私の年齢のせいだろうか?それとも現実がエイプリルフールみたいで、しかも笑えないそれであるようなことが多いせいだろうか・・・?

 取り留めないそんな思いとともに4月が始まった。

 学院では長年院長職を務められた中野新治先生が退任され、理事会で樋口紀子学長兼任ということが決定され、発表があったとお聞きした。大学は4月3日が入学礼拝、中高は7日が入学礼拝である。大学は昨年度に続き定員を上回る入学生を確保したと聞いている。多くの方々の努力があったのだろう。中高の入学生は苦戦しているようである。7日の入学礼拝に参加してみようと思っている。新校長の下で新年度が始まる。入学生の希望に満ちた挨拶に期待したいし、真新しい制服姿も楽しみだ。下関は春冷えが続く天候のせいでいつもより桜が遅く、7日の入学礼拝の頃が見ごろになるだろう。

 我が家でも今、五分咲きである。この桜は植えて30年を超えたのでなかなか美しい。今年は花付きもよく、毎朝桜を観察することが日課になっている。5輪の花が咲くのに4日かかった。五分咲きの今日は、春の嵐のような風の中で枝を揺らしながら咲いている。小雨も降っているが若い花はその色や可憐さを損なうことはない。気づけば海棠の花も咲きだしている。例年だと桜が散ってから咲くのだが。田舎道の土筆も今年は遅く数が少ない。移り行く季節の中で不順な気候の変化は小さな一つひとつに表れているようだ。当たり前のように季節は巡っていくのであるが小さな変化に心を留めてみたい4月である。

春の仕事

片山宣子

 風が冷たい。わずかでも日差しがあるとその温かさに嬉しくなる。そんな春の日、ミカンの苗木を植えている。天気が目まぐるしく変わり霙も降ってくる。

 仕事を辞めた後の生活は、田舎暮らしにふさわしくできるだけ自給自足に近い生活をしてみよう。その為には自分の手足をできるだけ使う生活をしよう。時間をぜいたくに使い丁寧な暮らしがしてみたい。等々。農業の一年生スタートとして考えていたが、農作業はそんなに甘くない。連れ合いは1メートル近い穴を掘りたい肥を入れ苗床を作り準備する。土がこなれ苗を植えるのだが、苗木の細い根を傷つけないように拡げて大事に土をかけて植えていく。十分に固めた上から水もかける。腰も痛いし、ゴム引きの手袋の中の手もかじかんでくる。土と付き合うことは無心の忍耐力が必要な気がする。合理的に、手早くと考えてしまう自分の在り方が太刀打ちできないと思わされる経験だ。

 夜、テレビでさまざまな外国人の意見を聞く番組があり、日本の傾きかけた会社が全員掃除で再生に成功したという事例を扱っていた。全員に掃除を強制するのは賛成できない。(なるほどと頷ける)自分は頑張って教育を受けたのだから掃除をしろと言われるのは侮辱されたと感じる。(?これは頷けない)この意見に同意する人が少なくないことに驚いた。

 教育が格差を生み出す現実は残念ながら今や事実であるが、その格差を埋めていく働きも教育の目標なのではないか?高等教育を受けた自分は掃除よりもっと高度な仕事で能力を発揮する方が合理的と考えるのは善なる価値判断だろうか?いろいろ考える。

 掃除するしかない人々を、自分のことのように考えるという価値観を柔軟に持ち続ける人間でありたいと思いながら、少なくともその努力はしたいと思いながら畑の草を抜いている。終わりのない春の仕事である。

寒中お見舞い申し上げます

片山宣子

 昨年は天災や人災が続き、社会情勢も揺らぎの多かった年でした。新しい年も変化や混迷の予感ばかりが語られますが、皆様お元気でしょうか?

 今日、下関は寒風にさらされています。山陰の海岸は打ち寄せる白波で、191号線を走ると車は潮しぶきをたっぷりと浴びました。

 さて、年の初めの同窓会は新会員を迎える準備と大学・短大卒業生の会「海峡会(仮称)」の成功を目指します。「海峡会」は大学短大の卒業生の親睦交流会です。これを契機に学年を超えて人のつながりが生まれることが望まれます。同窓会誌の準備も始まりますし、総会もあっという間に近づくことでしょう。考えると心配になりますが、この寒さの後には立春を迎えるように、未来の展望は必ず開けるものだと信じて頑張りたいと思います。宜しく応援下さい。

 皆様のご健勝をお祈りいたします。お風邪を召されないように・・・。

クリスマスの季節

片山宣子

 12月の同窓会事務局は、なんだか大変あわただしい。安成さんが、80歳以上の同窓生へ送るクリスマスカードの準備、磯谷さんは傘寿のお祝いのお茶の準備、畠中、北村、岩男さんはメールのチェックや会員登録の整理をする。あまり広くない仕事部屋は熱気に満ちている。コール梅光のチャリティーコンサートは盛況のうちに実施できて本当に良かったと明るい話題で盛り上がる。時間があっという間に過ぎていく。

 12月、今年最初のクリスマス礼拝は、コール梅光のコンサートの礼拝だった。「風に立つライオンでありたい」という福岡YMCA理事長齋藤皓彦先生のメッセージは胸に響き勇気を与えられるものだった。(ああクリスマスを迎える意味を考えよう。様々な災害に見舞われた多くの人々が、この自分であっても何の不思議もない事実を胸に刻みたい。等々、色々な思いが沸き上がる)

 17日(土)は中高のクリスマス。女子校最後の高校三年生が、丸山の丘でハレルヤを歌う。生徒たちにとっても心痛むことが多かっただろう一年がどのような祈りになってクリスマス礼拝が持たれるのだろう。良いクリスマスであって欲しい。

 22日(木)は大学のクリスマス礼拝。今年から学生数が増えたので学生中心のクリスマスになり、いつもハレルヤコーラスの助っ人だったコールの出番はなくなった。18歳から90歳(以上も)まで、いつでもハレルヤが一緒に歌える学院という伝統を体現していたものが消えるのは残念な気もする。だが、定員確保は喜ばしいことでもある。

 自宅には教会からクリスマスコンサートや礼拝のお知らせが届く。通知にも個性があるが、聖書のみ言葉が小冊子になって届いたのは嬉しかった。やはり12月は聖書の言葉に立ち返りたい。私自身は何度もクリスマス礼拝を重ねるのには抵抗もある。喜びの時だが、静かに過ごすことの大切な時期だと思うからだ。ベツレヘムの12月の深夜はきっと深い静寂に、慎ましい人の心に満ちていたと想像する。冬の寒さの中で、冷たい夜気を吸い込み夜空を眺めたい季節なのだ。

佐藤泰正先生召天一年記念礼拝

 召天日の11月30日、13時より下関教会で執り行われた記念礼拝には、約40名の人が集まりました。卒業生有志をはじめ、先生と出会った人々が静かに佐藤先生を偲び、先生の深い人柄を思い起こす時となりました。

 一部は下関教会三輪従道牧師の司式による礼拝でした。
 ローマの信徒への手紙7章7~25節の朗読に続き、佐藤先生の文学者としての「人間探求」が、同時に「福音の準備」の働きであったことが、聖書の語る罪の問題と共に語られました。また常に穏やかで威圧感とは無縁の本物の存在感を持つ先生のお人柄の魅力が今も鮮やかに生きていることが語られました。

 二部は思い出を語る会でした。
 吉津先生・武原先生・安富先生・伊豆一郎さん(大学卒業生)などが語り手でした。
 佐藤先生が、教え子、同僚、後輩の教師を励まし育てて下さったことが様々なエピソードと共に語られました。
 中でも、この日先生のご命日だから何としても教会で祈りたいと、記念礼拝のことは知らずに参加された「百花の会」のお二人のお話と詩の朗読は印象深いものでした。
 先生が市民グループの現代詩の学び「百花の会」を40年以上に亘り指導されていたことが紹介され、参会者はあらためて先生の深い情熱や広範な人間関係に心打たれました。  「佐藤先生に出会った人生は、それまでの人生、出会わなかった人生とは全く違うものになりました。」という「百花の会」の方の言葉を、一人ひとりが胸に刻むひと時でした。

 最後に安富恵子先生から奥様、亰先生の近況が報告されました。(多くの卒業生が美術の授業を受けたことを思い出されることでしょう。)亰先生はご親族やヘルパーさんの支えを受けて穏やかにお元気にお過ごしとのことでした。

*先生を偲ぶ集いとしては、大学院卒業者を中心とした「はまゆう会」主催の会やアルスの特別講演会などもありました。(報告者 片山宣子)

下関教会「召天祈祷会」に参列して

 「召天者記念礼拝」が下関教会でありました。11月6日午前10時15分、礼拝開始。梅光関係者、とくに広津家の納骨や今年8月昇天された滝本先生の納骨も執り行われるという事で同窓会役員も参列しました。
 廣津藤吉、廣津信二郎、廣津ヤス、廣津シガ、前田よしえ、滝本哲也、井本文子、他の協会員の方々、13名の遺影が飾られました。廣津信二郎先生の御子息の健さんご夫妻もお見えになりました。
 三輪牧師が「主と共に眠る者の幸い」という題でお話をされました。
 その後、教会墓地のある観音霊園に移動して、墓前礼拝と納骨式が行われました。
 初冬の暖かい青空のもと、関門海峡を見下ろす静かな墓地で永遠の眠りにつかれました。同窓会からの花も飾られました。 同窓会からは片山と磯谷が出席しました。

「秋深まる」

片山宣子

 10月中旬から11月初旬にかけて、下関近郊の町々でも様々な行事が開催される。地区の小学校や幼稚園と連携しての運動会、地域活動の発表会の文化祭などである。収穫を終えたこの時期には神社の秋祭りもある。東京ではハロウィーンに向けてのイベントがあるようでニュースを賑わせている。楽しい文化の秋満載という風景だ。
 私も退職後、地域のボランティア活動に参加している関係で参加する行事もあった。しかし一方では、人口の減少をその度毎に感じている。60代、70代、80代の人たちが行事の主体者である。若者、子供が少ない。東京のハロウィンナイトの様子とは大違いである。私用で時折上京するが、「人口密度」「若者たち」という言葉を実感するのがその折で、地方との格差を強く感じてしまう。実際はその東京も人口減少に向かっていくようであるが。
 私は地方が好きである。ニュースでさまざまな事象が伝えられる時、今流行りのコメンテイターが「でも経済効果がありますよ。凄いですね」とまとめる姿に胡散臭さを覚え、日本人はどのような文化や価値観を根っこに持ちたいと考えているのかと独り言を呟いている。世界からクールな日本と評価される根底にあるのは何だろうか。GNPではないだろうと思うのである。自然から育てられる豊かな感性、人や物に対する丁寧で真摯な姿勢、時に対する穏やかな向かい合い方などの価値は再認識されるべき根底ではないだろうか。深まる秋はいろいろと思考を促す力があるようだ。
 野道には、黄色いツワブキの花が咲いている。海の近いこの辺りでは、この可愛い花はアラカブを釣りに行く合図でもある。一刻秋を楽しもう。

「9月」

 9月の彼岸が過ぎるこの頃、下関近郊ではあちこちで稲刈りが行われ、あぜ道に真っ赤な彼岸花が咲き始めます。彼岸花は曼珠沙華とも呼ばれますが、「葉見ず花見ず」とも呼ばれるとか、よく言ったものだと古人の観察眼と言語感覚を面白く感じます。野ネズミから田の畔を守るために毒を含んだこの植物を植えたという知恵にも驚きますし、それを捻挫の湿布薬にも使ったとか、生活から生まれる知恵の豊かさは感動モノです。(何も河豚を食した歴史を教科書で読むだけではないな・・・)

 花言葉は色々あります。「あきらめ」はわきに置いて、「情熱」「独立」「再会」などの花言葉が今の私にはいいなと思いながら花の群れを眺めているこの頃です。

「酷暑・八月」

 毎日暑い日が続きますが、同窓生の皆様、お元気でお過ごしでしょうか?

 同窓会誌の発行が一段落した7月から、新しい本部体制の活動が始まりました。総会の時にホームページの立ち上げをお約束しましたが、やっと始めることができました。このHPを、これから同窓生みんなで一緒に育てていきたいものです。情報をできるだけ早く発信し、広く意見を聞きたいと思います。パソコンが苦手とおっしゃる方もおありだと思いますが、どうか同窓の友人や家族の助けを通して参加していただきたいと思います。「YOU・友・遊・座」は、趣味や特技を楽しむことで交流を深めたいと設定をしています。先ずは俳句や川柳、短歌や詩などを自由に寄せて下さい。生活雑感を300字以内にまとめたエッセイなども楽しみですね。参加者みんなで自由に創り、育て、交流を深めましょう。

 さて、この度の会誌発送後、宛先不明で返送されたものが700余通ありました。住所変更もHPからできるようになりました。ご利用ください。また、早速に運営費へのご協力をいただいております。本当に感謝でございます。ありがとうございました。今後ともご支援いただきますようお願い申し上げます。下関では8月13日関門花火大会があります。関門地区に久しぶりのご帰省を計画なさっておられる方もいらっしゃるでしょう。ご自愛くださり楽しい八月をお過ごしください。